Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

漂流船の行く末

majesticsaigon.hatenablog.jp 陸地 漂流した者、つまり余儀なく家路につくことができなくなった者達の願いは、畢竟「陸に辿りつくこと」でしかない、と思う。 その願いは、帰るべき故郷を持つ者にとっては「家に帰ること」であるかもしれないが、サイゴンが…

70's

70's 私には、どうも70年代に呼応するものがあるらしい。決して行くことのできない場所には一種の魅力があるのだろうか。ノンフィクション作家の沢木耕太郎は、「夢の都市」という言葉でそれらを表現した。ベルリンと、上海、サイゴン。それらの都市には、-…

シエラネバダの向こう側

動物園で 「寺内貫太郎一家※」等で有名な向田邦子の名は以前から知っていた。私にとって印象深いのは、沢木耕太郎があるとき、飛行機の墜落事故被害者を報じるラジオの音声に「K.ムコウダ」と伝えているのを聞いた、というエピソードである。(親交のある)…

明治は遠くなりにけり

明治は遠くなりにけり 1868年は、明治元年であると同時に慶応4年であった。この年に慶応義塾大学が創立され、13年後の1881年に明治法律学校(後の明治大学)が設立された。両大学の名称は、いずれも当時の元号から取られたものである。 ところで、「明治は遠…

近藤紘一 × 日本競馬史 1

スポーツ・ノンフィクション 私は近藤紘一や沢木耕太郎をはじめとして「ノンフィクション」作品を多く読むが、初めて自ら買い求め、読み進めていった作品群も、分野として純然たる「スポーツ・ノンフィクション」に属していることに気がついた。 それは、「…

あの日 あのとき サイゴンで

世界新記録の瞬間 昨日の昼にふとテレビをつけると、1977年9月3日に、放物線を描いてライトスタンドに飛び込んだボールの映像が流れていた。世界最多本塁打の記録を更新した、王貞治の通算第756号ホームランの瞬間である。 そのテレビ番組のテロップがずいぶ…

漂流者達のアルバトロス

ドリフターズ drifter 1 漂流者(者) 2 放浪者、浮浪者 ドリフターという英語は、日本語が「漂流者」と「放浪者」を明確に区別するのと異なり、二つの意味を含有している。また、その複数形を表す「ドリフターズ」は、その言葉の意味するところを超えて、ず…

必携の書2

大黒屋光太夫 必携の書とは、「その人にとっての」と冠をつけるのがより正確かもしれない。急に歴史上の話になるが、1792(寛政4)年、松平定信が老中を務める時代のこと、ロシアのラクスマンが日本の漂流民大黒屋光太夫を伴って根室に来航した。 教科書では…

サイゴンハートブレーク・ホテル

ハートブレーク・ホテル 「(サイゴンで)「ハート・ブレークホテル」は、若い日本人記者達の仮の棲家であった。(中略)単身赴任の商社マンや歴代の特派員達が住んだ。私自身も二年近く住んだ。解放軍のロケット砲弾も時々落ちてくる場所だったが、住めば都…

欠陥から生まれるもの

majesticsaigon.hatenablog.jp 捨てる技術 文章に関わらず、作品を作り上げるには「捨てる技術」というものが重要だとは、よく言われることだ。例えばノンフィクションの作家は、知り得た多くの事実のうち、そのどれだけを削ぎ落として、「作品」として世に…

1954年の戦い -日本、ローマ、インドシナ-

落語、日本を知ること。 先日の事、私は初めて生の落語というものを見た。いや、落語は「聞いた」と言うのが正確だろうか。落語家は、立川志の輔門下の二つ目で、アメリカの名門イェール大学への留学、三井物産での社会人経験を経て入門したという異色の経歴…

次郎の話

majesticsaigon.hatenablog.jp 次郎の話 「次郎の話」というのも唐突だが、近藤紘一の弟は、次郎(つぎお)という。近藤紘一自身によって語られた弟とのエピソードは、戦時戦後の食糧難時に食べ物を奪い合った、という少々シビアな話だが、この記事は次郎(…

伝説の編集者 新井信

伝説の編集者 新井信 1979(昭和54年)、第10回を迎えた大宅壮一ノンフィクション賞をダブル受賞した人物がいる。文芸春秋社においてノンフィクション部門の編集者として従事した新井信(あらいまこと)だ。 (↑上記外部リンクにて、新井さんが大宅壮一ノンフ…

探訪 名ノンフィクション

鋭角と鈍角 ノンフィクションの方法論 私がこの本「探訪 名ノンフィクション」を手に取ったのは、沢木耕太郎、近藤紘一といった書き手の作品によって「ノンフィクション」というジャンルに興味を抱いているからである。そしてこの作品には、中央公論誌上に20…

日本人の国際化について

現代は国際化の時代とよく言われるが、私にはこのことについて大いに疑念がある。確かに交通手段やインターネットによって、物理的、電磁的に日本と世界の距離は縮まっている。例えば私も留学中の従兄弟と連絡を取ることができ、至極便利である。 また、スポ…

夏の海、近藤家と萩原家

夏の海 「サイゴンのいちばん長い日」の作者として知られる近藤紘一には、「サイゴンから来た妻と娘」シリーズの著作があるが、近藤さんには若くして亡くなった前妻がいた。近藤さんは、湘南高校から進学した早稲田大学の仏文科において、駐仏大使萩原徹の娘…

1927年、フットボーラー近藤 ー極東選手権競技大会ー

Far East かつて、極東選手権競技大会(The Far Eastern Championship Games)という競技会が開催されていた。 1913年から34年まで、10回実施されたこの大会は、フィリピン、中国、日本の3か国を順次開催地として開かれたが、「満州国」参加に関して日中が激…

タイの国王

タイのプミポン国王が亡くなったという。 在位70年、1946年から長きに渡り、国の要となってきた。 近藤紘一がバンコクにいた頃も、そうであった。 近藤紘一の著作に登場する各国のお偉いさん方も、 近年訃報が相次いでいるように思われる。 ヴォーグエンザッ…

近藤紘一の義父、萩原徹。

義父 萩原徹 「サイゴンから来た妻と娘」を書いた近藤紘一が、ベトナム戦争を取材する新聞社の「戦地特派員(ウォーコレスポンデント)」として、南ベトナム共和国の首都サイゴンに赴任したのは1971年、31歳の時だった。近藤さんは、その前年に日本人の夫人…

晩年の父台五郎と、近藤紘一

医者と息子 私は近藤紘一の著作を読んでいて、家族の話題であっても、近藤さん側の親族がほとんど出てこないことに多少の違和感を覚えていた。その違和感は、おそらく近藤さんは医師である父近藤台五郎とはあまり良い関係にないのではないか、という邪推と置…

「美しい昔」への反論①

「美しい昔」への反論 沢木耕太郎、開高健、司馬遼太郎のほか、古森義久ら近藤紘一と同時期にベトナム戦争を取材した者達によって、近藤さんについて言及された本が複数存在している。その全てを把握するにはしばらくの時間がかかりそうだが、こうした「近藤…

近藤家の人びと2 -祖父 近藤次繁ー

名医 近藤次繁 近藤次繁は,日本で初めて胃がんの手術を成功させた人物として知られている。近藤台五郎の父,近藤紘一の祖父の当たる。帝国大学でお雇い外国人ユリウス・スクリバ※に学んだ近藤次繁は,帝国大学卒業後も医術の道を歩み続け,次第に名医として…

近藤紘一の足跡2 -そしてサイゴンへ-

サイゴンとの出会い 近藤紘一は、1975年に南ベトナム共和国において、ベトナム戦争終結に至る「サイゴンの一番ながい日」を経験することになる。日本の若きジャーナリストは如何にしてその歴史に立ち会うに至ったのか。 1963年に早稲田大学の仏文科を卒業し…

近藤紘一ブログ(Witness1975’s blog)開設

このブログについて このブログは、2016年2月25日に開設されました。近藤紘一さんに関わることを中心に、継続しているところです。最初に掲載した記事については、大幅に加筆修正し、次のとおり掲載しています。(2018年5月12日) 【その他の記事等】 ◇サイ…