Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

記憶、或いは希望の話

筆者あるいは読者の視覚

 最近、新潮文庫版の「ヘミングウェイ全短編」を読み、その作品は評判どおり優れたものだと感じた。ヘミングウェイは「視覚型」の作家だと、作家の吉村昭が書いていたが、描写される風景が鮮やかにイメージされるように思われ、その意見は的を射ている、と思った。

 読者の側にも、視覚型、聴覚型といったタイプが分かれているのかもしれず、私がヘミングウェイの文章を良いと思えるのも、私が視覚型の読者であるかもしれない。例えば、開高健は、触覚型或いは嗅覚型の作家であるように思える。私のような”鼻の効かない”人間には、肌感覚で理解しがたい世界が、そこには描かれているのかもしれない。

 そう思えば、このブログのテーマである近藤紘一の文章はどうであろうか。おそらく視覚型なのではないか-改めて検証はしていないがー、という気がする。

 

 

非人間化の過程

 近頃の、ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、私はしばしばサイゴン陥落のことを思い浮かべている。それにしても、あれから47年が経過し、戦争はいよいよ機械的な、非人間的なものになってきている。人間の知覚の及ばない遠方から、人によって照準を合わせられることもないミサイルが飛んでくる。 

しかし(サイゴンから北方数十キロの)スアンロクが落ちてもまだビエンホアがある。北ベトナム軍もこのまま一気に首都には攻め込めないんじゃないか

 という、まだしも人間的な感覚からは、随分と離れた領域まで、兵器の進化(或いは退化)が進んでいるようだ。

 

パリの近藤紘一、或いはヘミングウェイ

 ところでヘミングウェイを読んで思い出していたのは、ベトナム以前の近藤さんが、絶望の淵にあってヘミングウェイを読み耽っていたということである。

 近藤さんがヘミングウェイのどの作品を読んでいたのか書かれていないが、私はそれが前述の短編集だったのではないか、という気がする。近藤さんの亡き妻との思い出のいくらかは、パリ時代のものである。若い時代にパリで暮らしたヘミングウェイの書く世界の中に踏み入ることで、それは絶望と後悔に近づくようなやり方で、近藤さんは何かのきっかけを探したのかもしれない・・・と。

 

 

no title

 料理に使われる香辛料が素材の味を高めるように、旅にスパイスというものがあるなら、最上のスパイスとは、未来への漠然とした希望なのではないか、という考えが萌した。

 それなら・・・などと、余計な考えをもったときは、明日のために早く眠ることが最善手の一つだと、誰かが言ってくれるだろう。