Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

欠陥から生まれるもの

majesticsaigon.hatenablog.jp

 

捨てる技術

 文章に関わらず、作品を作り上げるには「捨てる技術」というものが重要だとは、よく言われることだ。例えばノンフィクションの作家は、知り得た多くの事実のうち、そのどれだけを削ぎ落として、「作品」として世に送り出すのだろうか。

 おそらく魅力的でありながらも、その構成上の理由から日の目を見ないエピソードも多いはずだ。私を含め素人は、その作業や調査の成果をあらかた作品に盛り込みがちだ。そういった意味では、麻雀放浪記などの著作を残し、「雀聖」とも言われた阿佐田哲也色川武大)が、牌を捨てるがごとく洗練された文章を残したのにも理由があるように思える。と、いうのは麻雀を嗜まない私が、敬遠していた阿佐田哲也の作品を読んだ所感である。

 蛇足だが、阿佐田哲也というペンネームは、麻雀明けの「朝だ、徹夜だ」から来ているそうだ。プロならば、この”蛇足”を削るだろうか。

 

双葉山横綱相撲

 さて、この阿佐田哲也の短編に「黄金の腕」という作品がある。その作品を読んだ日、私はテレビで、往年の大横綱である双葉山の連勝が69で途切れた取り組み(対安芸の海)を見た。

 そして、読み始めた「黄金の腕」には、麻雀で連勝する難しさを語る件において、偶然にも双葉山に係るエピソードが書かれていたのだ。小さな偶然に驚きながら読み進めると、この大横綱は、隻眼だった、というのである。

 片目では遠近感がつかみにくい、その結果、その取り組みは相手を一度受け止め、これに対応して勝利を掴むという形に成らざるを得ない。それはまさに”横綱相撲”だ。横綱相撲と言う言葉自体は、さらに遡って常陸山という横綱の相撲が由来らしいが、双葉山の取り組みがこうした横綱観をさらに醸成したことは間違いないのではあるまいか。

 

パースナリティ

 阿佐田哲也は、このエピソードを引いて

若手と違って、ヴェテランは圧勝はできない。どれほどそう見えても、天の配列で連勝などできるものか。そこには必ず、自分の戦法を生かし、彼我の戦力を効果的に差をつける意思の働きがあるはずだ。逆に言えば、必ず、欠陥がある。完全な大人など居ない。欠陥から切なく生まれるのがパースナリティだ。

と書き、連勝を続ける相手の欠陥を見出そうとする・・・。

 

遅筆の理由

 ところで、私は、近藤紘一は遅筆だったと思っていた。あるいは著作で本人が明言していたかもしれないが、近藤さんの文章は、思いつくまま流れるように書かれた文章ではなく、遅筆の人の、考えられた文章だと思っていた。後日出典は示したいが、本人の証言が確認できたので以下引用すると「僕は遅筆だから、一日(四百字詰め原稿用紙で)三~四枚が限界だ。今でも下書きして書いているし、一つのセンテンスを一晩中考え抜いて、結局一行も進まないことだってある。」という。

 この遅筆の理由に想いを馳せると、近藤さんは「この文章は(様々な理由から)捨てなければならないのではないか?」ということに煩悶したのではないか、と思う。書くことではなく、削ることに悩んだのではないか・・・。

 近藤さんの文章の魅力のいくつかは、遅筆という「欠陥」から見出されるパースナリティだったのではないか、と。

 

 

伝説の名横綱 双葉山―六十九連勝全記録 (中公文庫)

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黄金の腕 (角川文庫)

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