「パリの近藤紘一」~ベトナム・ストーリーズ~
ベトナム・ストーリーズ
私はかつて、新聞記者になりたいと思っていた。物を書いて暮らす人になりたいと、ただぼんやりと願っていたので、そのうちに希望はどこかへ飛んでいってしまった。あるいは、魅力ある近藤紘一作品にもっと早くに出会っていたら新聞記者への道を志し、その道を踏み外していた?かもしれない。
さて、神田憲行さんというライターが、「パリの近藤紘一」という文章を書いている。神田さんの単行本である「ベトナム・ストーリーズ」に掲載されているこの文章(初出はアジア大バザール)は、「近藤紘一が勤めていたから」という理由で、サンケイ新聞社への入社をも検討したという著者が、主にベトナムについて書いた文章群である。
オンボロホテル
サンケイ新聞社への入社まで検討した神田さんであるから、はじめてのホーチミン(サイゴン)でも、近藤さんの泊まったホテルを選んだという。
選んだホテルは、開高健のマジェスティックでも、グレアム・グリーンのコンチネンタルでもなく、当時はオンボロホテルだったカラベルである。なぜなら近藤紘一がそこに泊まっていたからだ。
私にとってはどうも、近藤紘一といえばマジェスティックホテル、という印象が強いのだが、近藤さんがサイゴン陥落前後に滞在したのはカラベルホテルなのだ。オンボロを建て替え、高級ホテルに生まれ変わったカラベルホテルについては、以下の私の記事にも登場させたが、カラベルがオンボロホテル呼ばわりされていることは、今回読み直して気がついた。
近藤紘一の影響
さて、神田さんは、自ら語るとおり、近藤さんから大きな影響を受けたという。やがてライターとして生計を立て始めた神田さんは、近藤さんについての取材を試みた。時は2000年、近藤紘一の没後14年、神田氏37歳の時のことだった。
そして、ツテを辿ってパリに住むナウさんとユンさんを訪ねてインタビューを行うことになったのだ。もし、近藤さんの作品を読み尽くし、何か近藤さんについて書かれた文章を読みたい!と思われたなら、この「パリの近藤紘一」をぜひ読んでもらいたい。
そこでは、歪められていない、読者のよく知る近藤さんの気配をといったものを、色濃く感じることができるのではないか、と思う。
私がこのブログを書き始めたのは、ある人物の書いた近藤さんに関する文章が、あまりにも酷いものだと思えたからだ。私は、ページをめくりながら、この文章は、死者への冒涜と呼ぶに値する、と思った。
パリの近藤紘一
ここで、「パリの近藤紘一」から、神田さんによるインタビューを終えての回想を引用してみよう。
ー(ナウさんとユンさんの)二人は近藤紘一の一連の本に紹介してあるそのままの生活を送っていた。本人たちも当時の話も、本のままだった。
神田さんによれば、「本人達の当時の話」も、本に紹介してあるそのままだった、というのだ。もっとも、当人同士の”なれそめ”に係る話には相違があるようだがーーまた、ナウさんが二年に一度は日本に帰り、近藤紘一の高校時代の友人、元同僚、担当編集者達に会うことを楽しみにしている、ということを聞きとっている。
2000年に神田さんの文章が発表されてから、前述の「ある人物」の書いた文章が発表されるまでには13年の間がある。その間に近藤さんの関係者にも様々な変化があったのかもわからない。
しかし、その文章が匂わせる人を貶めんとする意思と、神田さんの素直な筆致を鑑みれば、そのどちらが真実を伝えているかと考える時、その答えは明白なのではないか、と私には思えてならない。
神田さんは次のように書いている。
もしかなうなら私は天の近藤紘一に伝えたい。あなたの友人はいつもあなたの妻と娘を大切に守っている、と。
(この記事は、同タイトルで公開した記事を加筆、修正しました(2018.6))