随筆
随筆
随筆という言葉をなんとなく読み流していたが、現在では常用外となっている「随う」とは、「従う」と同意であって、文字どおり「筆ニ随フ」ように心に浮かんだことなどを自由な形式で書いた文章をいう。今では、エッセイと呼ばれることが多くなっているが、特に高尚な意味ではなく、普通の意味で、このブログの文章も随筆と呼びたいものである。
さて、近藤紘一について書きたいことがあるが、浮かんでは消える構想が形にならず、ひとまず筆を走らせた次第だ。
漢文
随筆というちょっと古めかしい言葉で書き始めたのには、ちょっとした理由がある。最近、漢文を学び直そうと思っているのだ。いずれは古典も、と思っている。近藤さんは、若いときに古今集や万葉集に親しんでいた。外国に、「必携の書」として万葉集を持ち込んだ近藤さんの心持ちや、沢木耕太郎が深夜特急の旅に李賀の漢詩を持ち込んだ心持ちというものを、もう少し理解できるようになるかもしれない、と思うのだ。
日本の近代化は即ち西洋化だったが、武士の基礎教養であった論語の理解なくして、これらの近代化の時代への明確な理解もまた得難い、と、そういったところがあると思っている。
注意
そこで、普段何気なく使っている言葉にも注意してみると、おもしろくもあり、難しくもある文章の意味に想いを馳せることになる。例えば「注意」と言う言葉も、漢文風に解釈すれば「意ヲ注スル」と言うことになるだろう。気持ちや考えを、他にそらさず、一点に集中する、といったところが元の意味だろう。
こうした文章に対する注意を、文章を書くプロフェッショナルは意識している、と考えるのが正しいものと思われる。私のような文章の素人は、プロのサッカー選手のようなシュートは放てないと思っているにも関わらず、日本語で文章を書くことは難しくない、と考えがちだからだ。
だとするならば、プロの作家の選択した言葉に、全体の文意を掴んだ上で着目していけば、作者の真意に迫れるのではないか、と考えることができる。それが、熟読玩味の道ではないか。
目撃者
沢木さんが、文芸春秋社の編集者である新井信の依頼を受けて編集した、近藤さんの遺稿集のタイトルは、「目撃者」である。
小林秀雄の「考えるヒント」収録の文章によると、空海は次のような表現で「目撃」という言葉を用いている。
空海は詩を論じ、「須らく心を凝らして其物を目撃すべし、便ち心を以て之を撃ち、深く其境を穿れ」と教えている。
近藤さんが、心を凝らして「サイゴン陥落」の場面を目撃し、心を以て之を撃ち、その境を穿った、というニュアンスまでを込めて遺稿集のタイトルを決めたと考えるのは、それほどつまらない考えではないと思うのだが、どうであろうか。
近藤さんの魅力は、「心を以て対象を撃った」ことにあると、私は思うようになっているのだ。