Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

「本居宣長」について2

本居宣長を読む 

 小林秀雄の「本居宣長」をついに読了した。ついに,というのも,購入してから既に数年が経過しているからだ。一度最初から最後まで読んだだけのことで,内容を理解したかと言えば,それは随分怪しいと言わざるを得ない。

 あえて激しい物言いをすれば,一回読んでわかるような本など大した本ではない。塾講師として著名な林修は,最近流行のさらりと読める本を称して「離乳食」と言った。噛まねば飲み込めぬ本があり,噛めば味わいの出る本がある。そういうことを上手く言ったものだと思った。

 本居宣長は「古事記伝」を書くのに30年かけ,小林秀雄は「本居宣長」を書くのに10年以上をかけた。読み終えるのに数年かかることも,相応のことだといっても,不思議ではあるまい,と思う。

 

majesticsaigon.hatenablog.jp

 

朱子の学

 たった一度読んだだところで理解したように思うことを,少し書いてみようと思う。本居宣長は「国学者」として紹介されることが多いが,当時の学問といえば,中国の孔子孟子等の四書五経が基本だった。誰もが学校で,「朱子学」という言葉を習ったと思う。朱子学とは,論語について「朱子」という人物が施した注によって成立した学問である。上下の秩序を重視した朱子学は,幕府の存続に良きものとして認められ,「国学」ならぬ「官学」と呼ばれるに至った。

 

国学者の仕事

 国学者たちの仕事は,この朱子の「注」から逃れ,孔子の言葉,つまり論語の原文の読みに帰することだった。「朱子の注は誤っている,孔子の言いたかったことは,本来はこうに違いない」そうした,荻生徂徠ら古学の解釈は,幕府にとって都合が悪いものだったに違いない。そうした中で「寛政異学の禁」という規制がされるに至る。

松平定信が老中となると、田沼意次時代の天明の大飢饉を乗り越え、低下した幕府の指導力を取り戻すために、儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させ、また当時流行していた古文辞学や古学を「風俗を乱すもの」として規制を図った。 

 

漢意を排す

 上記のように,日本の学問は,中国からの影響を大きく受け,江戸時代の学問即ち「漢学」であった。全ての書物には「漢意」が,「唐風」が含まれている。問題は,文字を持たない日本人が,表音文字ではなく「漢字という表意文字」によって自らの言語を表現せざるを得なかったという困難に行きつく。「古事記」とは,漢字伝来前の日本語の姿を残したものだ。漢字で書かれているが,それは当て字ともいうべきもので,稗田阿礼という語り部の語った日本の上代の歴史を残したものだ。そしてそれは,正当な漢文で書かれた「日本書紀」よりも格の低いものと見られていた。

 

古事記を読む

 江戸時代,「古事記」を読める者は日本にいなかった。本居宣長のした仕事は,源氏物語万葉集の読み込みから始まり,古事記を解読することだった。中国の影響を受けない,日本本来の言霊というべきものが残る古事記の解釈に,本居宣長は30年を費やした,ということだと思う。

 小林秀雄の「考えるヒント」の「学問」という随筆に,次のような一節がある。

彼(伊藤仁斎)は,精読,熟読という言葉とともに体玩という言葉を使っているが,読書とは,信頼する人間と交わる楽しみであった。論語に交わって,孔子の謦咳を承け,「手の舞ひ足の踏むところを知らず」と告白するところに,嘘はないはずだ。

 私がこれを引用したのは,本居宣長の読み方も,小林秀雄の読み方も,読書を「信頼する人間と交わる楽しみ」と捉えたものであったに違いない,と思うからだ。

 

 

万葉の心映え

 もし,このブログを継続的に読んでくれる人があるとすれば,このブログは近藤紘一についてのブログではなかったろうか,と思われるはずである。私もそう思う。本居宣長が,古事記を読むために,源氏物語万葉集に習熟したのと同じように,迂遠な道も必要なのではないか,と言い訳めいたことを言ってみる。近藤紘一が古典を愛好し「万葉秀歌」を愛読したという心持を理解すれば,何か得られるものがあるのではないか,と思わぬこともない。

 何が得られるか。少なくとも,「信頼する人間と交わる楽しみ」は得られるはずだ,と思う。

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