Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

「本居宣長」について1

再挑戦

前回記事の予告と異なる形で,記事を投稿してしまうことになる。気分に任せて,本を読む。場合により挫折する。時を経て,再挑戦することもある。私が今読んでいる本のうちの一冊は,小林秀雄の「本居宣長」である。この本は,著者自らが語るように,「引用」が多い。それはもちろん,本居宣長が書いたものだ。私には古文の素養が十分でないから,引用文は幾分読みづらい。ために,2年ほど前に中座していた。前回の記事に書いた「銀の匙」,スロウリーディングの考え方に触れ,再挑戦した次第だ。

 

本居宣長(上)

本居宣長(上)

 

 

引用

古文的な言い回しのために,不明瞭な個所はある。しかし,文章を読み進めることはできる。読んでいるうちに,わかってくる部分もあるのかと思う。まだまだ序盤だが,思うところのある文章に出会ったので,記事を書き始めた次第だ。その文章を,以下に引用する。原文は旧漢字旧かな使いだが,現代文で記載することを了承願いたい。

 

私達の持っている学問に関する,特にその実証性,合理性,進捗性に関する通念は,まことに頑固なものであり,宣長の仕事のうちに,どうしても折り合いのつかぬ美点と弱点との混在を見つけ,様々な条件から未熟足らざるを得なかった学問の組織として,これを性急に理解したがる。それと言うのも,元はと言えば,観察や実験の正確と仮説の合法則性とを目指して,極端に分化し,専門化している今日の学問の形式に慣れた私達には,学者であることと創造的な思想家である事とが,同じことであったような宣長の仕事,彼が学問の名の下に行った全的な経験,それを思い描くことが大変困難になったというところから来ている。

 

動機

私が,このブログを書いている動機は,私が近藤紘一の残した文章に感銘を受け,それがあるべき形で評価されていないのではないか?という疑念から生じている。上記の引用文を読むと,小林秀雄が「本居宣長」を書いた理由も,(僭越ながら)同じ理由によるのではないか,と思う。

本居宣長という人物を,現代的な尺度で測る,つまり「未熟足らざるを得なかった学問の組織として,これを性急に理解したがる」という状況に,不満を抱いたからだ,と思う。そんな失礼なことがあるか,ということだ。

 

majesticsaigon.hatenablog.jp

 

歩み寄る

もちろん,作者の手を離れ,文章の力だけで成り立つ作品は存在する。しかし,「作者」の書いたものを理解するためには,時によって作者の心持を,置かれた状況を把握することも必要だろうと思う。文学を楽しむために,そんなことをする必要ないという声はあろうと思う。ただ,ある一面での読書は,作者との会話である。読者が,近づいていく道もあると思う。自分勝手な尺度で,先人を矮小化するようなことはあってはならない。そのことは,心に留めておいてよいのではないか,と思う今日この頃の私だ。