Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

スファヌボン・パテト・ラオの夏

私は,旅が好きだ。

 沢木耕太郎流に言えば,軽度ではあるものの,旅という病にかかっているのかもしれない。この数か月,何度「旅に出たい」と思ったことだろうか。思い立ったが吉日,とばかりに家を出ることができないのは,「枷」である。

 プライベートジェットでも持っているなら別だが,旅に出るには,公共交通機関に限る。自家用車では,常に道路状況に気を配らなければならず,日常の義務感から解放されるという旅の効果が減殺されるからである。

 一,二時間ほど電車に揺られる間,いつもとは違った景色が目に飛び込んでくる。普段は気にも留めない緑の色合いや,雲の流れに気づく。旅に出たときに,太陽は美しい,などということを実感するのである。観光という言葉はおそらく明治の訳語だろうが,光を観るとはまことにうまい訳を当てたものだ,と思う。

 そのような旅のさなかに,ああこんなことを書こうかな,と思うものだ。つまり,ここまでの文章はブログの更新が遅れた言い訳なのである。書き始めれば,書けないことはない。が,書き上げた段階で公開に値せず,ということも多いのだ・・・。

 

ビエンチャン,8月10日

 さて,本日は8月10日である。近藤紘一の「目撃者」を開くと,1972年「ラオス和平機運【ビエンチャン八月十日】」の記事がある。今から,48年前と考えると,それは随分昔のことのように思える。

 ラオス問題は,先のプーマ首相とスファヌボン・パテト・ラオ(ラオス愛国戦線)議長の書簡の往復や,パテト・ラオ大物特使のビエンチャン入りなどで和平機運が盛り上がっている。

 このように記事が書かれているが,今となっては?何のことやらさっぱりわからぬ。私はラオスについて,首都がビエンチャンであること以外に何も知らぬ,ということに気が付いた。

 ラオスは,サイゴン陥落後の1975年12月に社会主義国ラオス人民民衆共和国が樹立されており,現在の人口は約691万人だという。ブリタニカ国際百科事典によると,スファヌボンは「「赤い殿下」の異名をとるラオスの革命家」で,現代ラオスではかなり重要な人物であるらしい。・・・当面の間ラオスは,私にとって謎の国であり続けるらしかった。

 

 

-閑話休題

競馬の神様

 先日,競馬の神様の本を手に入れた。「競馬の神様」と言われた大川慶次郎は,一日の全レース的中を複数回成し遂げた,競馬好きにとっては著名な人物である。大川は,「競馬場に天皇皇后陛下をお迎えする」ー競馬をロイヤルスポーツの域に格上げする」ことを大目標としていたらしい。実はこの大川は,渋沢栄一の曾孫である。その話題の中で,大川さんにもスポットライトが当たるとよいな,と思っている。

 

 

 そんなことを思いながら,別の本を開いた。1867年,フランスで万国博覧会が開催された。幕府の代表は,水戸藩徳川斉昭の子で,徳川慶喜の弟にあたる徳川昭武。その随員の中に,渋沢栄一が選ばれたことが書かれていた。私は,渋沢栄一との縁が強くなっているのを感じた。願わくば,印刷された渋沢栄一との縁も深くありますように,と思ったりした。

 

あとがき

本日は8月9日であった。慎んでお詫び申し上げる…