Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

近藤紘一の義父、萩原徹。

義父 萩原徹 

 「サイゴンから来た妻と娘」を書いた近藤紘一が、ベトナム戦争を取材する新聞社の「戦地特派員(ウォーコレスポンデント)」として、南ベトナム共和国の首都サイゴンに赴任したのは1971年、31歳の時だった。近藤さんは、その前年に日本人の夫人を亡くしていた。

 1964年、近藤さんは、早稲田大学で出会った浩子さんと結婚した。卒業して間もない23歳の時だった。サンケイ新聞に入社した近藤さんは、静岡支局に配属され、二人は静岡のアパートで暮らした。支局に奥さんが迎えに来るなど、文字どおりの新婚時代であった。

 結婚と時を同じくして、近藤さんの義父となった浩子さんの父、萩原徹について、近藤さんは次のように書いている。

一人の男が最も自然に、そしてその語の響きを生かして“パパ”と呼べるただ一人の存在だった。(目撃者「パパのこと」より)

 

駐仏大使 萩原徹

 私が確認した限りにおいては、萩原徹は一貫して「元駐仏大使」と紹介されているように思うが、その経歴を辿ってみると、次のようになる。

  • 1945年      外務省条約局長
  • 1952年頃     スイス公使
  • 1961年~     駐仏大使
  • 1972年      世界遺産条約が採択されたユネスコ総会議長

 

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 外務省のキャリア官僚

  ところで,萩原徹とともに外務省に入省した同期に、数年前に財務大臣を務めた与謝野馨の父,与謝野秀(与謝野鉄幹・晶子の次男)がいる。

 現在の国家Ⅰ種(キャリア官僚)試験に相当する文官高等試験外交科(外交官及領事館試験)の合格者として,1927(昭和2)年の第36回試験に、共に東大法学部からストレートで入省し、フランス書記生に採用された二人の名前がある。

(※同試験の第4回合格者には幣原喜重郎、第15回合格者には広田弘毅及び吉田茂、第50回試験の合格者には宮沢喜一らの名前が確認できる。)

 1953年頃に、小林秀雄白洲次郎がエジプトを訪れた際に、「与謝野大使」が、応接をしたことが両人いずれかの文章に書かれていたのを見かけた。これは、そうある名字でもないので与謝野秀であったと思われる。

 萩原徹についても、白洲正子自伝を読んでいたところ、白洲次郎夫妻が鶴川村へ引っ越す直前期に、萩原徹夫妻が白洲家を訪れ、夜の1時過ぎまで会話したことが記されていた。いろんな書物を読み進めていけば、いずれ「萩原大使」について書かれた文章にまた出会うであろうと思っている。

 

 萩原家の仮住まい

 同期入省の縁からと思われるが、戦後まもなくの頃、空襲により焼け野原となってしまった東京で住家を失った萩原家は、麻布にあった与謝野家の借家を頼り,一時共同生活をしたことが与謝野馨により語られている。与謝野馨の2歳下である浩子さんも、同時期にこの借家に住んでいたのだろう。 

 やがて条約局長の任を離れた萩原徹は、次の赴任地スイスに渡ることになる。萩原徹には、日本の平和条約締結にまつわる著書がある。国会図書館にでも行かなければ確認できないようだが、いずれ、その経歴にも一歩踏み込んでみたい。

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(2018年5月12日更新) 

 

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 <情報源>

与謝野馨公式HP 私の歩んできた道(7)

http://www.yosano.gr.jp/history/history_20151203.html

 

  白洲正子の祖父は薩摩出身の海軍大臣だった。西郷隆盛同様、郷中教育を受けた世代である。

白洲正子自伝 (新潮文庫)

白洲正子自伝 (新潮文庫)

 

 

 

 

晩年の父台五郎と、近藤紘一

医者と息子

  私は近藤紘一の著作を読んでいて、家族の話題であっても、近藤さん側の親族がほとんど出てこないことに多少の違和感を覚えていた。その違和感は、おそらく近藤さんは医師である父近藤台五郎とはあまり良い関係にないのではないか、という邪推と置き換えても差し支えない。

 「医師である父と、跡目を継がない息子」という関係性は、いかにもステレオタイプな、不仲の親子の類型に思える。まして外国人の妻と娘を勝手に連れ帰ってきたのだから、父親が古風な考えを持った人物であれば、円満な関係を築くことは難しい側面があったのかもしれない、と考えた。

 

胃がんの権威

  近藤台五郎は、東大病院に務め、「胃がんの権威」とも言われるその道の専門家だった。その息子である近藤さんが、よりによって胃がんで亡くなるというのは、あまりにも皮肉な話ではないかーー、と思われた。この親子は、ついに和解することはできなかったのかもしれないという私の憶測に、死因が拍車を掛けた。

 しかし、これは悲観的に過ぎたのかもしれない。近藤紘一の遺稿集「目撃者」に収められた非常に短いエッセイの中に、「異国暮らしのあとの久しぶりの故郷」という文章がある。長い間南の国で暮らした後に、紘一が「故郷のようなもの」と呼ぶ湘南、逗子に帰り、20年ぶりに両親と暮らした時の文章である。高度経済成長期、田舎とは呼べなくなりつつあったこの地域への感慨と共に、年老いた父に対する想いも述べられている。

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峻烈  

  ここで、冒頭の推測は正鵠を得ていたと思わせる記述がある。近藤さんは、父台五郎を次のように形容する。

常に巌のように傲然と私の前に立ちはだかり続けていた峻烈で冷厳な“壁”

 医学界に残した功績も大きいが、おそらく厳格な人物であったのだろう。しかし、そのエッセイで、台五郎は近藤さんに向かって声を掛ける。

「ときにお前、もう少しこの家で羽根休めするんだろうね」

 近藤さんは、あるいはこの言葉に、父の老いを感じ、時の流れの冷酷さを感じたのかもしれないが、これは時間の経過による和解とも言えなくはないのではないか、と思う。

 そして、近藤さんが胃痛を訴え続けていたころ、台五郎はしきりに病院での受診を勧めていたという。息子の心配をする尋常な父親の姿が、そこにはあったのだ。

 

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無名

   ところで、沢木耕太郎は、父のことを「無名」という作品に書いた。近藤さんにもその時間があったなら、と思わずにはいられない。そこにはきっと、確かな物語が描かれただろう、と思う。

 

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