Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

必携の書2

大黒屋光太夫

 必携の書とは、「その人にとっての」と冠をつけるのがより正確かもしれない。急に歴史上の話になるが、1792(寛政4)年、松平定信が老中を務める時代のこと、ロシアのラクスマンが日本の漂流民大黒屋光太夫を伴って根室に来航した。

 教科書では1行で綴られるこの出来事だが、光太夫の旅路はとても1行で語り尽くせるものではない。紀州から江戸に向かった船が大時化に遭って大破漂流する運命に呑まれたのは、1782年のことである。

 飢え、渇きに耐えてアリューシャン列島に到達するまで8カ月。上陸後も、わずかに肌を曝しただけで凍傷を負う極寒の大地で過ごす9年という月日のうちに、17人の乗組員はわずか3人となっていた。さらに、3人のうちの一人も根室停泊中に壊血病で倒れ、故郷を目前に命を落とした水主に多くの人が涙したという。

 

必携の書ー大黒屋光太夫ー

 光太夫には、必携の書があった。嵐に遭い、舵が流れ、帆を切り倒し漂流する。仲間が死に、原住民の争いに巻き込まれ、想像を絶する極寒の土地で家々を転々とし・・・こうした激動の10年、彼は本を手放さなかった。船が海の藻屑となり、着物が羅紗の衣服に変わっても、彼の手元には当時の辞書である「節用集」と数冊の浄瑠璃本があった。節用集に収録された懐かしい文字と、その意味するところを何度となく読み返したに違いない。

 

近藤紘一の必携の書

 これは以前、齋藤茂吉の「万葉秀歌」とレマルク凱旋門であることを以下の記事に書いた。そして、前回記事を書いた時点で全く気付いていなかった事実に、司馬遼太郎の著作に触れて気がついた。

majesticsaigon.hatenablog.jp

 

『人間の集団についてーベトナムから考えるー』

 同書は、司馬遼太郎が1973年4月1日から3ヶ月間のサイゴン滞在を元にした、ベトナム見聞録といったものである。いかにも随筆といった趣がある。司馬の到着日の前日に米軍がサイゴンから完全撤退しており、街で米兵の姿を見ることは全くなかったという。時は、サイゴン崩壊まであと2年ー。

 近藤紘一と司馬遼太郎 - Witness1975’s blog

 

支局長 近藤紘一

 この作品はサンケイ新聞に連載された(1973年4月から連載されており、現地で執筆されていたようだ)。はじめ司馬遼太郎夫妻は、旅行のつもりで訪れようとしたが、戦争中の国であるから、新聞社に諸事を頼んだ方がよい・・・と、かつて夫妻が所属したサンケイ新聞社に声をかけたということらしい。

 当時のサンケイ新聞サイゴン支局長が、近藤紘一であった。現役の特派員である近藤に代わって司馬に同行したのは、サイゴン支局の特派員OBであり、司馬にとっては後輩に当たる友田錫(ともだせき)記者であったようだ。司馬の書いた近藤の弔辞に、友田氏の名前が挙がっていたことに合点がいった。

 

久保田実医師

 友田記者以上に、ベトナムにおける司馬氏と関わっているのは、南ベトナムで医療活動に従事していた久保田実医師である。作中たびたび登場する当時30代の久保田医師には、必携の書があった。それは、「万葉集」と「凱旋門」であった。

 

不思議な合致

 近藤紘一と久保田医師はともに、必携の書に万葉集と、凱旋門を選んでいたのだ。久保田医師にとっての万葉集も、近藤紘一にとっての万葉集と同じように、それは自分があくまで「日本人であること」を確かめる書であったかもしれない。

 そして、気付いたことは、「凱旋門」の主人公が「外科医」であるということだった。もぐりの医者であるラヴィックは「病院から呼ばれ、手術が終われば影のように消える」・・・さしずめフランスのブラック・ジャックだが、フランスを旧宗主国とする南ベトナムで、凱旋門の頁をめくる医師久保田実と、医師の家系に生まれながら医師にならなかった新聞記者近藤紘一。サイゴンで奮闘した二人の日本人にとって、凱旋門はどのような意味を持っていたのだろうか。

 

夢見た旅と余儀ない旅 

かつて私は、旅を「余儀ない旅」と「夢見た旅」に二分したことがある。強いられて余儀なくする旅と自らが望んでする旅との二つがあると。
だが、それはひとりの人物が常にどちらかの旅をしているということではなく、あるときは「余儀ない旅」をし、あるときは「夢見た旅」をするということであった。

沢木耕太郎

 

 漂流とは「余儀ない旅」の最たるものだ。大黒屋光太夫の旅は、徹頭徹尾「余儀ない旅」であった。一方で、彼は常に夢を見ていた。いつの日か、故郷の土を踏み、故郷の海や、梅の花を見たいー

 近藤紘一のサイゴンでの日々は、余儀ない旅の性格を持っていたようにも思える。光太夫と違って、航空機に乗ればわずか1日で日本で帰ることもできたのだ。それにもかかわらずー

 

 

・・・自ら希望して任期を延長しながら、その一方では晴れて勤めを終えてタンソンニュット空港を飛び立つ日を、心から夢見たことも少なくなかった。

 そんなとき、私はよく下町を歩いた。(中略※サイゴンで生きる人々の人生は)帰りの航空券をポケットにしてこの土地に足だけ引っかけている私自身のそれよりは、はるかに悲痛で凄絶なものであるはずだった。そんな人々からふと気恥かしげに微笑みかけられたり、思いがけぬ気遣いを受けたりするたびに、私は、そのために生きるに値するものをかいま見るような気がした。

 

サイゴンから来た妻と娘 あとがきより)

 

 

 近藤紘一は、余儀ない旅を必携の書とともに過ごすうちに、妻と娘に出会い、南ベトナムサイゴンで暮らす人々に触れ、書を捨てて、街に出よう、と思ったのかもしれなかったー。

 

 

人間の集団について―ベトナムから考える (中公文庫)

人間の集団について―ベトナムから考える (中公文庫)

 

 

 

大黒屋光太夫 (上) (新潮文庫)

大黒屋光太夫 (上) (新潮文庫)

 

 

 

旅の窓 (幻冬舎文庫)

旅の窓 (幻冬舎文庫)

 

 

 

 

 

 

 

サイゴンハートブレーク・ホテル

ハートブレーク・ホテル

 「(サイゴンで)「ハート・ブレークホテル」は、若い日本人記者達の仮の棲家であった。(中略)単身赴任の商社マンや歴代の特派員達が住んだ。私自身も二年近く住んだ。解放軍のロケット砲弾も時々落ちてくる場所だったが、住めば都だった。単身赴任の寂しい記者たちが競い合い、励まし合うそんな雰囲気を「ハートブレーク・ホテル」と私は名づけ、ひそかにそう呼ぶ。」・・・「大南公司アパート」という5階建ての雑居ビルをこう名付けたのは、2009年に刊行されたデビュー作「キャパになれなかったカメラマンーベトナム戦争の語り部たちー」で、第40回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した平敷安常である。平敷は、ベトナム戦争にアメリカABC放送サイゴン支局のカメラマンとして、10年に渡って活動した。

 

日本人記者達のベトナム戦争

 気にかけているものに眼が行く、ということは実際にあるらしい。私は久しぶりに訪れた図書館で、吉行淳之介の作品を探していたのだが、通りがけの通路で「日本人記者達のベトナム戦争」という文字が眼に入った。「サイゴンハートブレーク・ホテル」の副題である。近藤紘一の名前はないだろうか・・・私はその場で目次を開くと、見覚えのある字面があった。「PANA通信」という名の通信社が、かつてあったのだ。

 

PANA通信

 私がこの通信社の名前を知っているのは、近藤紘一の従兄弟である近藤幹雄がPANA通信に関わっていたからである。しかし、その関わりがどういったものなのか、PANA通信と言うのはどういった会社であるのか。これは後に時事通信の傘下に入ったということを除いて、インターネット上ではほとんど情報がなかった。

 ところが、この「サイゴンハートブレーク・ホテル」によって多くの情報を得ることができた。PANAとは「PanーAsia Newspaper Alliance」つまり、アジア広域新聞同盟とでも直訳しておくが、最初は東南アジアの国々で発行されている中国語の新聞にサービスしていたが、1950年代半ばに「PANA写真部門」が創設されたという通信社であり、太平洋戦争後に日本のジャーナリストが海外での取材が不可能だった時期に、朝鮮戦争などの報道を行い、大きな役割を果たしたものの、日本経済の復興とともにその役割を縮小していったという・・・。

 

近藤幹雄

 そんな折の1962年、PANA通信の社長に32歳で就任したのが近藤紘一より10年年長の近藤幹雄であった(幹雄はPANA通信創業者のノーマン・スーンの愛弟子だった)。自身が「朝鮮戦争を取材した経験を持つ戦場カメラマン」でもあった幹雄は、「燻り始めたインドシナ半島の報道に力を入れ、優秀な特派員を次々に送り込んだ」という。近藤紘一にとっては、身内にインドシナ報道の先駆者がいたことになる。1967年にサイゴンを経由してパリに向かった紘一が、従兄弟からサイゴンを見て行け・・・と言われたかどうかは分からないが、やはり何らかの影響を受けていたとしても、不思議なことはあるまい、と思う。

 

<続>

 

サイゴン ハートブレーク・ホテル 日本人記者たちのベトナム戦争

サイゴン ハートブレーク・ホテル 日本人記者たちのベトナム戦争