Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

私の台湾日記④【完結】

 時の流れ

 先日乗った飛行機から窓外の空を眺めていると、対向する飛行機が後方に過ぎ去っていった。あのように一瞬で過ぎ去っていく機体を、かつて私は見たことがなかった。これが相対速度か、と実感した。

 「時間が早く過ぎ去る」と思うそのとき、私は果たして前に進んでいるか。時が進行方向を同じくして確かに共に歩んでいるなら、相対的に進みは遅く感じられるに違いない。

 もし私が立ち止まっているなら、その瞬間、時は相対的に加速するのではないか・・・。1月5日にこう書きだしてから、すでにいくらかの時間が流れ去ったようだ。

  

歴史家の矜持

  さて、年末年始の休暇では、「ローマ人の物語」で著名な塩野七生の「ローマから日本が見える」と、吉村昭の「海の祭礼」「海の史劇」を読むことができた。初めて塩野氏の著作を読んだが、同氏の記述からは歴史作家たらんとする矜持が見られ、大変興味深かった。史実を良く調べることは、作品を書くに当たって当然のことで、調べた事実をいかに生かすかが本質であるという。同旨のことは吉村氏も言っており、私は大いに反省するところがある。

 

「事実」は語る

  このうち「海の史劇」は日露戦争を描いたもので、その文章を二つ、以下に引用する。

「・・・彼ら(ロシア兵)にとってアフリカの暑熱は余りにも苛酷すぎた。甲板上の温度は摂氏三五度を越え、鋼鉄は手を触れると火傷をするほど熱し、館内の温度は実に摂氏四十五度以上にも達していた。」

 この記述だけで、日露戦争時のロシア艦隊は、凍結する北極海ではなく、喜望峰をまわる遠大な道のりを経て日本海軍との決戦に挑んだことが分かり、その道程の困難さを感じることができる。

(西アフリカのダカール(フランス領)で石炭を補給させたフランスに対し日本が)「・・・石炭積込ミノ実施ヲ許可シタ行為ハ中立国違反デアルトシテ、日本政府ハフランス政府ニ対シテ厳重ナ抗議ヲ発シタ。」

 また、この記述では、(同盟国であるイギリスの協力によるものとも推測されるが)遠く西アフリカのダカールで行った石炭積込について、日本政府が把握、対応していたことが分かる。

 このように、「事実」が語るところは大きく、そうした点に留意してこのブログでも近藤紘一氏について書いて行ければよいと思っている。この前文をもって、読者の皆様への年始の?御挨拶に代えさせて頂きたい、と思う。

 

完結「私の台湾日記」

  ところで意外なことだが、日露戦争サイゴンとの間に関係がないではない。東洋に進出してきたロシア艦隊は、仏領インドシナカムラン湾でも石炭を補給したが、その石炭補給に係る実動部隊は、サイゴン港で手配されたのである。前段が長くなったが、昨年から続く「私の台湾日記」は以下に完結を迎えることになる。

majesticsaigon.hatenablog.jp

  礁渓温泉を出発した私は、電車で台北に向かった。私の乗った急行電車「莒光号(きょこうごう)」は旧式の列車らしく、扉はレトロな手動式である。相変わらずの曇天だったが、車窓から時折目に映る海岸線は美しかった。

 

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万華地区

  台北市内に戻った私は、この台湾行の一つのキッカケともなった鈴木明氏の「続・誰も書かなかった台湾ー天皇が見た”旧帝国”はいまー」によると”上級者向け”の地区とされる「万華地区」に行ってみることにした。

 地下鉄を降り、地上に上がると公園があり、多くの老人で賑わっていた。私は石の椅子に腰かけて談笑する彼らが将棋でも打っているのかと近づいてみたのだが、どうやらここに集まる人々は、”炊き出し”に集う類の人であるらしかった。

 近くには「西昌街観光夜市」があり、昼であっても、雑多としかいいようがない商品が並べられている。得体のしれないコードや配線を、誰が買うのだろう。私はその良い加減な商売ぶりを、面白いと思った。暗がりには、白昼から夜の店の客引きが屯する。

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二手書店

  私は歩いた。「歴史地区」を歩き、「地球の歩き方」によると「いまだに異様な雰囲気に満ちており、治安はあまりよくない」とされる通りを歩き、そのうちに、英語のセカンドハンズの訳なのだろうか、台湾では「二手書店」と呼ばれる古書店を探すことを思いついた。

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 台湾から引き揚げた日本人が叩き売って行った本が残ってはいないだろうか・・・そんな期待は儚くも裏切られたが、立ち寄った古書店で日本の本が売られている書棚を目にした。そこには、近藤さんの「目撃者」の文庫版が売られていて、やはり東南アジアに旅立つ者にとって、近藤さんの著作は一つの指針になるものなのだ、と一人合点した。異国で近藤さんの本を見かけて、なんだか私は嬉しかった。

 

南島の希書を求めてー沖縄古書店めぐりー

  そんな本屋で私が購入した本は、このようなタイトルの本であった。1984年に発行されたこの本は、沖縄に登場する古書店と、古書を愛する3人の記念品的な本なのだが、私が面白いと思ったのは、この古書に著者の書き込みがあったことだった。沖縄の有人島を全て訪れ、「沖縄都ホテル」の社長を務めた著者の一人、桑原守也氏がおそらく台湾の知人である「蔡 建塗」氏に贈った本が、何らかの理由によって手放されたものらしく、日本に持ち帰ることに些かのためらいも感じたが、古書店で、古書を愛する彼らの書いた、何やらストーリーのある古書に出会ったことが大変興味深く、いずれ人手に渡るならば、と約300円で購入することにした。

 

台北の夜

  この日の台北は、台湾全土で行われている選挙のためにいつもとちょっと違った雰囲気を纏っていたのかもしれない。20歳ぐらいの若者達も、街頭で流れる選挙速報に足を止めている。日本とは政治への関心度が違う、と月並みに思ったが、再び別の古書店を訪れた私は、古書店の店主が台湾南部高雄の選挙結果に歓喜する姿を見た。私は何度も自分は日本人で中国語はしゃべれないと伝えたのだが、彼は構わず政権与党の牙城を崩した選挙結果についての喜びを私に語った・・・。

 

みんな、ここにいたのか。

 

 台北駅前の夜は更け、人通りもまばらに飲食店は次々に閉店していった。私は夕食を食いそびれそうだった。人気のない路地を食事を求めて、闇雲に歩くと、人の賑わう気配を感じた。

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 寂しい通りを長く歩いた私は、みんなここにいたのか、と思った。夜の11時になろうとも言うのに、観光客だろうか、ずいぶんたくさんの人が集まっていた。

 雑踏の中を歩くが、日本に帰らなければならないという思いが募ってくる。帰国までの自由時間は、睡眠時間を含め7時間を切っていた。

 旅が人生に似ているなら、上手くいかない旅もあるだろう。コンビニによってホテルに戻り、目覚ましを抱いて眠った。

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 数時間後、月明かりの不思議な早朝を、空港へ向かう。素敵な月だと思った。

 

<完>

 

 

私の台湾日記③

台湾東部へ

 

 

(前回のあらすじ)

 早朝、台北市内のドミトリーを出た私は、台湾鉄道台北駅から、急行電車「莒光号(きょこうごう)」に乗って台湾東部に向かう・・・

 

宜蘭県花蓮県

  私が5年前にスペインを訪れた頃、北部のサンチャゴ・コンポステーラへ向かう特急電車の事故があった。私は事故報道を知り、迷っていた行き先を南部のアンダルシア地方に決めた。

 先ごろ、台湾東部宜蘭(ぎらん)県で特急列車「普悠瑪(プユマ)号」の脱線事故があった。それは大変痛ましい事故だったが、”今度はそちらへ”行ってみようかな、と思った。プユマとは、台湾東部に住む部族の名で、かつて日本では他の先住民と併せ「高砂族」と呼ばれていた。地図を開き、東部の都市「花蓮(かれん)」を目的地として切符を買った。台北からは約2時間半の旅程である。

 花蓮駅は新しい駅舎で、旧駅があった地域が今でも賑わっている情報を元に、旧駅を目指して歩きだした。新しいはずの駅舎が修復作業を行っており、今年の2月に地震がこの地を襲ったことを、改めて知った。

2018年花蓮地震 - Wikipedia

 

 花蓮の街

  街を歩いていると、復興はある程度進んでいるように思えた。やがて左手に小学校が現れ、壁にはセピア色の展示物が埋め込まれ、右上に「花蓮港庁 紀元二五九三年」と書かれていた。つまりこれは、日本統治時代の様子を示しているのだ。「零戦」が皇紀二六〇〇年に製造されたことを考えれば、1930年代の様子だろう、と思った。

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 その後、道より一段高いところにベンチがあるのを見つけて登ると、そこは堤防になっており、ベンチに腰を降ろすと、上の写真と同じ「川筋」がそこにあった。

 私は上着を脱ぎながら、台湾が南国であることを、改めて感じた。

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 街には、旧時代の遺構が整備され、いくつも残されていた。

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 旧駅や、当時の詰め所、駅長の机などである。展示されている資料には、手を触れるなと書いてあったが、表紙をめくれば日本語の文章が書かれているはずだった。

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<旧花蓮駅>

 

先島の先 

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 遺構や街の様子を眺めながら、海に向かった。台湾東部の海は美しいと聞こえており、間近に眺める海は確かにエメラルドブルーの色彩を帯びている。この海の先には、宮古島などを含む先島諸島があり、島から東に沈む夕日を見たことを思い出した。曇天がどこまでも続いている。ひとしきり水平線を眺め、食事をとって、別の街に行こう、という考えがふと浮かんだ。

 

ルーローファン 

 私は、昨日から滷肉飯(魯肉飯・ルーローファン)が食べたかった。なるべく賑わっている店を見つけ、ルーローファンを頼んだ。知っている中国語は、わずかに「ニイハオ・シェイシェイ・ルーローファン」の三語に過ぎないので注文には難儀したが、身振り手振りで手に入れた料理はおいしかった。ひっきりなしに客が入り、どうやら「当たり」のようだった。私はこの店で、「大・小」という漢字の発音を覚え、次は大きなルーローファンを食べよう、と心に誓った。

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 花蓮の印象は、どうも普通の地方都市といった趣で、刺激に欠けているように私には思われた。どこかでベトナムのように「何かが起こる」のを期待していたのかもしれない。短い旅だ、予定がない強みだ、と移動することに決めた。

 朝の電車で、妙に活気のある街並みがあり、駅名を見るとそこには「礁渓」とあった。そこは「礁渓温泉」という温泉地らしく、一度外国で温泉に入ってみたい、という望みを叶える良い機会だと思った。

 

ホテルの名は 

 礁渓温泉では、当日割引で半額となっていた温泉付きの宿「Jade Spring Hot Spring Hotel」に宿泊することにしたが、ホテルを見つけるのに多少手間取った。このホテルのどこにも、「Jade…Hotel」などとは書かれていなかったからだ。「玉泉ホテル・玉泉旅館」というのが、私の泊まったホテルである。

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礁渓の夜 

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 傘を差し、近場にあるという公衆浴場に向かうと、そこには「日治時代名湯「湯溝」」と書かれていた。温泉ではずっと、日本の古い曲が流れていて、祖母が口ずさんでいた曲もあった。雨に打たれて露天風呂に浸かっている間、一人の老人が、流れる歌に合わせて高らかに歌っていた。

 ホテルに戻り、ダブルベッドで足を伸ばすと、外では爆竹の鳴る音が響き、シュプレヒコールも聴こえて来る。この翌日には、台湾の統一選挙が予定されていたのだ。

 やがて夜も静まり電気を消すと、老人の歌が思い出された。

 

 濡れてゆこうよ 何処までも

 何処までも 何処までも・・・

 

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