私の台湾日記③
台湾東部へ
(前回のあらすじ)
早朝、台北市内のドミトリーを出た私は、台湾鉄道台北駅から、急行電車「莒光号(きょこうごう)」に乗って台湾東部に向かう・・・
宜蘭県・花蓮県
私が5年前にスペインを訪れた頃、北部のサンチャゴ・コンポステーラへ向かう特急電車の事故があった。私は事故報道を知り、迷っていた行き先を南部のアンダルシア地方に決めた。
先ごろ、台湾東部宜蘭(ぎらん)県で特急列車「普悠瑪(プユマ)号」の脱線事故があった。それは大変痛ましい事故だったが、”今度はそちらへ”行ってみようかな、と思った。プユマとは、台湾東部に住む部族の名で、かつて日本では他の先住民と併せ「高砂族」と呼ばれていた。地図を開き、東部の都市「花蓮(かれん)」を目的地として切符を買った。台北からは約2時間半の旅程である。
花蓮駅は新しい駅舎で、旧駅があった地域が今でも賑わっている情報を元に、旧駅を目指して歩きだした。新しいはずの駅舎が修復作業を行っており、今年の2月に地震がこの地を襲ったことを、改めて知った。
花蓮の街
街を歩いていると、復興はある程度進んでいるように思えた。やがて左手に小学校が現れ、壁にはセピア色の展示物が埋め込まれ、右上に「花蓮港庁 紀元二五九三年」と書かれていた。つまりこれは、日本統治時代の様子を示しているのだ。「零戦」が皇紀二六〇〇年に製造されたことを考えれば、1930年代の様子だろう、と思った。
その後、道より一段高いところにベンチがあるのを見つけて登ると、そこは堤防になっており、ベンチに腰を降ろすと、上の写真と同じ「川筋」がそこにあった。
私は上着を脱ぎながら、台湾が南国であることを、改めて感じた。
街には、旧時代の遺構が整備され、いくつも残されていた。
旧駅や、当時の詰め所、駅長の机などである。展示されている資料には、手を触れるなと書いてあったが、表紙をめくれば日本語の文章が書かれているはずだった。
<旧花蓮駅>
先島の先
遺構や街の様子を眺めながら、海に向かった。台湾東部の海は美しいと聞こえており、間近に眺める海は確かにエメラルドブルーの色彩を帯びている。この海の先には、宮古島などを含む先島諸島があり、島から東に沈む夕日を見たことを思い出した。曇天がどこまでも続いている。ひとしきり水平線を眺め、食事をとって、別の街に行こう、という考えがふと浮かんだ。
ルーローファン
私は、昨日から滷肉飯(魯肉飯・ルーローファン)が食べたかった。なるべく賑わっている店を見つけ、ルーローファンを頼んだ。知っている中国語は、わずかに「ニイハオ・シェイシェイ・ルーローファン」の三語に過ぎないので注文には難儀したが、身振り手振りで手に入れた料理はおいしかった。ひっきりなしに客が入り、どうやら「当たり」のようだった。私はこの店で、「大・小」という漢字の発音を覚え、次は大きなルーローファンを食べよう、と心に誓った。
花蓮の印象は、どうも普通の地方都市といった趣で、刺激に欠けているように私には思われた。どこかでベトナムのように「何かが起こる」のを期待していたのかもしれない。短い旅だ、予定がない強みだ、と移動することに決めた。
朝の電車で、妙に活気のある街並みがあり、駅名を見るとそこには「礁渓」とあった。そこは「礁渓温泉」という温泉地らしく、一度外国で温泉に入ってみたい、という望みを叶える良い機会だと思った。
ホテルの名は
礁渓温泉では、当日割引で半額となっていた温泉付きの宿「Jade Spring Hot Spring Hotel」に宿泊することにしたが、ホテルを見つけるのに多少手間取った。このホテルのどこにも、「Jade…Hotel」などとは書かれていなかったからだ。「玉泉ホテル・玉泉旅館」というのが、私の泊まったホテルである。
礁渓の夜
傘を差し、近場にあるという公衆浴場に向かうと、そこには「日治時代名湯「湯溝」」と書かれていた。温泉ではずっと、日本の古い曲が流れていて、祖母が口ずさんでいた曲もあった。雨に打たれて露天風呂に浸かっている間、一人の老人が、流れる歌に合わせて高らかに歌っていた。
ホテルに戻り、ダブルベッドで足を伸ばすと、外では爆竹の鳴る音が響き、シュプレヒコールも聴こえて来る。この翌日には、台湾の統一選挙が予定されていたのだ。
やがて夜も静まり電気を消すと、老人の歌が思い出された。
濡れてゆこうよ 何処までも
何処までも 何処までも・・・
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