Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

滑走路の暗殺

滑走路の暗殺

 

 物騒なタイトルだが、その書き出しは美しい。

 残照のマニラ湾ー。

 ロハス通りのレストランのテラスから眺めると、観光ポスターそのままの色彩と構図である。ダイダイ色に燃える海と空、灰色から暗灰色に移りゆくちぎれ雲、その下の部分は海の向こうに没した日輪の最後の照り返しを受けて黄金色に輝いている。

 風はない。並木のヤシは自らの葉の重みで思い思いにうなだれ、背後の空を黒く染め抜いて寝支度に入っている。

(近藤紘一 「妻と娘の国へ行った特派員」より)

 

 

 

 「滑走路の暗殺」は、近藤さんが、「フィリピンの反体制政治家」とされていたベニグノ・アキノ氏暗殺について書いたレポートである。同氏は、2016年まで同国の大統領務めていたベニグノ・アキノ3世の父に当たる。暗殺事件の委細についてはここで触れないが、私はこのレポートの書き出しを読んで、改めて近藤さんの文章の表現力に感服した。

 

描写する力

 

 私が同じ光景を見たとして、何度書いても「海の向こうに没した日輪の最後の照り返し」とか、「背後の空を黒く染め抜いて寝支度に」といった描写はできまい、と思う。そこまで表現に差が出るとしたら、一体どのような要因があるか。

 そこに私は、文章力だけではない「視る力の差」があるのではないか、と思うようになった。視る力を持つ者に、文章力が備わって初めて両輪を成し、名文が誕生するのではないだろうか。

 こうした視力は、一定のところまでは鍛えていけるものであるとは思う。あらゆるものを如何に漫然と見過ごしているか、卑近な例を挙げてみる。2年も住んでいる部屋から見慣れぬ鉄塔が見えた。もちろんその鉄塔はずっと存在していたが、私は気にも留めていなかった。あるいは、いつのまにか更地が出現していて、取り壊される前にどんな建造物が存在していたか一向思い出せぬー、と実例は枚挙に暇がない。

 

何を考えてよいか

 

 何か書いていると、途中で考えがまとまってくる、ということがある。今日は書いていても、なにやら先が見えない。試みに、「滑走路の暗殺」の終わりはどうまとまっていたか、頁をめくる。

 どんなことでも、後になれば、然るべき辻褄合わせができるものなのだから。

 とある。何かが上手くいかない今日この頃も、この文章についても、「然るべき辻褄合わせ」ができるとよいものだがー。

 そういえば、「辻褄」とはなんであるか。「辻」は十字路、「褄」は服の「へり」、「(上下左右、うまく合うべき着物の縫い目の意)一貫すべき、物事のはじめと終わり。」とのこと。

 物騒なタイトルのためか、文章の着地は失敗かもしれぬーー。と思いつつ、寝支度に入ることにする。

サイゴンのちょっと短い日⑮(2018ベトナム訪問記)

君の声はマジェスティック

  B'zがそう歌うのを聞いて、私は筆を進めなければならぬ、と思った。「サイゴンのちょっと短い日」は短期集中連載で終わる予定だった。それがいつのまにか書き始めから半年以上が経過してしまっている。連載が長引くと、なんだか一人前の作家の気分がするーーーなどと書いてみても、これはくだらぬ自己陶酔に過ぎまい。なんだか文体も混乱してきた気がする。

 というような、勝手気ままな書き方はあまりしていないつもりなのだが、どうであろうか。本題に戻るが、戻るといっても筆者が忘れているこの旅のあらましを簡単に振り返っておく必要があるーーー。

<これまでのあらすじ> 

 思い立って近藤紘一の愛した「サイゴン」、今のホーチミン市を訪れた私は、近藤さんにゆかりのあるマジェスティックホテルに向かった。ホテルの場所を確認した私は、間もなく近づいてきたバイクタクシーの老人ミンさんに連れられ、原付バイクで郊外の都市、メコンデルタ河畔のミトーに向かう。ベトナム軍の兵士だったというミンさんと別れた私は、マジェスティックホテルで宿泊しようとする。そして部屋に通された私は・・・

majesticsaigon.hatenablog.jp

 

コロニアル風の部屋

  サイゴン動物園でチェックインまでの時間を過ごした私は、ホテルに戻ると、既定の時間より一時間ほど早く部屋に通してもらうことができた。

f:id:Witness1975:20181002222856j:plain

 沢木耕太郎が泊まった「リバーサイド」の部屋は空いていなかったが、一部屋だけ空いていた「コロニアル風の静かな部屋」を案内された私は、ます部屋に据えられた大きなベッドと、その天井の高さに驚かされた。おそらく5メートル以上の高さがある。ベッドには南国の花が添えられ、絵画が掛けられている。サイドテーブルには、フルーツが置かれていた。

 f:id:Witness1975:20181002222927j:plain

 これは、一人で泊まるにはなんともったいない部屋だろう、と思われた。コロニアル風の、とは訳せば植民地風の、ということになるが、かつて仏蘭西領であったこの地で、すでに一流ホテルとして知られたこのホテルの歴史ある客室の一つなのだろう。落ち着いた調度も、その雰囲気を醸し出すのに一役買っていた。私に親近感を抱かせたのは唯一、TOSHIBA製のテレビである。

 

窓の外

 f:id:Witness1975:20181002223006j:plain

 窓を開けると、ホテルの内側に面したスペースが見受けられた。1975年のサイゴンの面影を探しに来た私にとっては、このような取り残された景観は良いものだった。いくつかの外国を旅行して、都会の景色には面白みが少ないと思うようになった。例えその土地に時計台やマーライオン等のランドスケープが存在しても、ビルだらけの街に感じる魅力は限られている。そういった面で言えば、ホーチミン市、かつてのサイゴンは辛うじて、往時の面影を残しているのではないか、と思わせるところがあった。急速な勢いで失われてきたその面影は今日も一つ削られ、10年後には完全に消え失せているかもしれない・・・。

 

大理石のバスルーム

 f:id:Witness1975:20181002223231j:plain

 バスルームは、大理石が使われていた。このように豪華なバスルーム入ったことは、これまでの人生にはなかった、と言っていい。気分が高揚して、鏡には私が見切れている。ミンさんとのバイク行でひどい日焼け(火傷)を負った私は、水風呂で身体を冷やし、街に出る。ホテルは立派で快適だが、ホテルで終日優雅に過ごすほど、私は優雅な日取りの猶予を持ち合わせていなかったからだ。

f:id:Witness1975:20181002223329j:plain

 ホテルを出た私は、かつて動物市が軒を連ねていたというハムギ通りを歩きだした。かつての喧騒はなく、銀行などが居を構え、週休日に当たるこの日は、通りも閑散としていた。喧騒はどこだ!私は歩く。