サイゴンの特派員 友田錫〈下〉
サイゴンの特派員
平敷安常氏の「サイゴンハートブレークホテル」では、平敷さんが友田錫氏に送った質問に対する答えが紹介されている。質問内容は、「ベトナムへ行った動機について」「報道の姿勢ないし視線について」「友田記者にとってベトナム戦争とは何であったか」の3項目である。
詳細はここで差し控えるが、友田さんも、近藤紘一と同じようにサンケイ新聞の社内留学制度でフランスに留学したことが記されている。また、友田さんのサイゴン滞在期間については、次のように述べられている。
サイゴン常駐特派員在任期間は、六十七年から六十八年。ただしその後も、七十四年まで毎年、三カ月ごとに南ベトナムやカンボジアへ飛び、移動特派員として取材に当たりました
この間にやはり、71年から74年にサイゴン支局長を務め、終戦時に臨時特派員として現地にいた近藤さんと友田さんの間には、密な交流があったと考えて差支えはないだろう。平敷さんは、サンケイ新聞に所属した二人について次のように書く。
こんな記者たちと組んで働いてみたいなぁ、と大抵の報道カメラマンは思うのではないだろうか。
これは、言葉どおり最大級の賛辞が贈られたものと受け取るべきだろう。二人は、こんな人と働いてみたいな、と思われる人だったのだ。勤め人にとって、そのように思う人物がどれほどいるかと思う時、その言葉を実感することができるように、私には思えるのだ。
(サイゴン川/2018)
ジャーナリストの見るジャーナリスト
私が、そんな友田さんと近藤さんの”つながり”を感じる文章を読んだのは、比較的最近の事だ。近藤さんの最後の単行本である「妻と娘の国へ行った特派員」を、私は「電子書籍」で読んでいた。
改めて文庫版を手に入れて、電子版に収録されていない「解説」のあることに気がついた。この「解説」を書いたのが、他ならぬ友田さんだったのである。
私は、この友田さんの解説が、近藤さんに対する最上の批評文であると考えている。沢木耕太郎が近藤さんの遺稿集「目撃者」に寄せた「彼の視線」は、近藤さんのある面を非常によく捉えたもので、私の感覚にも大いに影響を与えていると思う。
しかしながら、沢木さん自ら語るように、沢木さんは近藤さんに会ったことはない。ごく近しい場所で近藤さんを見た友田さんの書く「近藤紘一」には、自らの目で見た事実を拠り所とする、具体的な力があるように思えるのだ。
解説 友田 錫
友田さんの解説を読めば、野地秩嘉の書いた「美しい昔」には、全く描かれていない近藤さんの実像が浮かぶように思う。
物事を観察するとき、その視線の背後に愛情があるかないかで、見えるものが違ってくる。(中略)愛情のある視線は赤外線のような透徹力をおびている(中略)ジャーナリスト近藤紘一には、この力が備わっていた。
透徹力のある視線を持つ者を見抜くには、透徹力が必要である、といえば逆説に過ぎるだろうか。これは、優れたジャーナリストが、冷静に一個人を評した表現であるように私には思える。
私はいま、ジャーナリストとしての近藤氏の内側を探っている。(中略)仕事の上でも個人的な関心の面でも、ともにベトナムという対象を離れがたいものに感じていた。それなのに、この尊敬すべきジャーナリストの資質のすべてを、外科医のメスさばきのように摘出して見せるのは至難のわざである。
このように書く友田さんが、いい加減な文章を残すはずはないのではないか、そのように思えば友田さんの記述は全てが信頼に足るものだ。
すぐれたジャーナリストは、何よりも物事の本質を掬いとる能力のある人である。
友田さんは、「すぐれたジャーナリスト」をこのように定義するが、まさに友田さん自身も優れたジャーナリストであったことに疑いはないだろう。私も日常生活で、少しでも本質を見据えて生きていければいいのだが、と思う。
この文章で、わずかばかりでも何か掬えただろうか。
友田錫記者の御冥福をお祈りします。
サイゴンの特派員 友田錫〈上〉
サイゴンの特派員 友田錫(ともだ せき)
今夏、旅先で新聞をめくると、友田さんの名前を訃報欄で目にした。
友田錫氏
(ともだ・せき=元日本国際問題研究所所長、元産経新聞外信部長)
(中略)早大卒業後、東京新聞を経て産経新聞に入社、ベトナム戦争時代のサイゴン(現ホーチミン)特派員を務めた。カンボジアの故シアヌーク国王と良好な関係を築き、パリ支局長や外信部長を歴任。退社後は亜細亜大教授や日本国際問題研究所所長などを務めた。
友田さんは1935年生まれの83歳で、近藤紘一より5つ年長である。私がその名前を初めて目にしたのは、司馬遼太郎の書いた近藤さんへの弔辞の中だった。
ー君との思い出の中に、一九七三年、昭和四十八年四月のサイゴンの暑い日差しがあります。
あのフライパンの上に人間たちを載せたようなかりそめの国の中で、君が、ピアノ線のようにはりつめた緊張を維持しつつ、市場を歩き、戦場を歩き、いつも斧のように鋭い貌をしていたことを終生わすれることができません。おそらくそういう君に毎日接していたこの席の古森義久氏や友田錫氏も同様の思いでありましょう。-
「錫」という漢字が読めず、PCの手書き検索で調べたから、この名前は印象に残った。古森氏と並列されていることから、きっと親しい記者仲間であるのだろう、と思っていた。
司馬遼太郎のベトナム取材
あるとき、司馬遼太郎の「人間の集団について」に友田さんが登場して、サンケイ新聞の外信部に所属していることがわかった。司馬さんも同紙の記者だったことがあるから、後輩に取材旅行の同行を頼んだ、ということであったらしい。
司馬さんによると、友田さんは次にように評されている。
友田錫氏は何度もベトナムへ行った人で、その美しいフランス語はベトナムの古い知識人たちが感心するところであった。彼はこの地上のすべての民族なかでベトナムの庶民がいちばん好きだという。かれはサイゴンの庶民に小児科医のようなやさしさで接した。そのくせ、渾身が観察眼のような人物で、その洞察力にしばしばおどろかされた。
この文章は、「現地の支局長近藤紘一氏にはずいぶん世話になった。ー」と続く。
(支局に近かった、かつてのツゾー通り/2018)
サンケイ新聞サイゴン支局
友田さんの詳細がさらに詳しく書かれていたのは、以前の記事でも紹介した平敷安常の「サイゴンハートブレーク・ホテル」だ。平敷さんの記憶によると、友田さんは「近藤紘一記者の前任だった」という。平敷さんの記憶が正しいとすれば、近藤さんが前任者(=友田さん)について書いた一節があるな、と思いついた。「支局の主 中国人の女中さん(アカムさん)」と出会う場面である。
赴任した私はまず前任者から、この支局の主に引き合わされた。
アカムさんは、近藤さんいわく「自ら構築した文法体系と、独自に発明したボキャブラリーでフランス語を駆使する、創意に富んだ女性である。」という。彼女は、近藤さんが悪事(シャツに染みをつけたり)を行うと、「クペ・ラ・テット(首を切るぞ)!」と叱責する。
私は前任者の十分の一も紳士ではなかったので、前任者の十倍以上、アカムさんに首を切られた。
私は、この一文を読んで、友田さんは紳士なのであるな、と認識した。近藤さんの信頼を置く先輩記者である友田さんに、次回も触れてみたい。
<つづく>