Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

サイゴンのちょっと短い日⑮(2018ベトナム訪問記)

君の声はマジェスティック

  B'zがそう歌うのを聞いて、私は筆を進めなければならぬ、と思った。「サイゴンのちょっと短い日」は短期集中連載で終わる予定だった。それがいつのまにか書き始めから半年以上が経過してしまっている。連載が長引くと、なんだか一人前の作家の気分がするーーーなどと書いてみても、これはくだらぬ自己陶酔に過ぎまい。なんだか文体も混乱してきた気がする。

 というような、勝手気ままな書き方はあまりしていないつもりなのだが、どうであろうか。本題に戻るが、戻るといっても筆者が忘れているこの旅のあらましを簡単に振り返っておく必要があるーーー。

<これまでのあらすじ> 

 思い立って近藤紘一の愛した「サイゴン」、今のホーチミン市を訪れた私は、近藤さんにゆかりのあるマジェスティックホテルに向かった。ホテルの場所を確認した私は、間もなく近づいてきたバイクタクシーの老人ミンさんに連れられ、原付バイクで郊外の都市、メコンデルタ河畔のミトーに向かう。ベトナム軍の兵士だったというミンさんと別れた私は、マジェスティックホテルで宿泊しようとする。そして部屋に通された私は・・・

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コロニアル風の部屋

  サイゴン動物園でチェックインまでの時間を過ごした私は、ホテルに戻ると、既定の時間より一時間ほど早く部屋に通してもらうことができた。

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 沢木耕太郎が泊まった「リバーサイド」の部屋は空いていなかったが、一部屋だけ空いていた「コロニアル風の静かな部屋」を案内された私は、ます部屋に据えられた大きなベッドと、その天井の高さに驚かされた。おそらく5メートル以上の高さがある。ベッドには南国の花が添えられ、絵画が掛けられている。サイドテーブルには、フルーツが置かれていた。

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 これは、一人で泊まるにはなんともったいない部屋だろう、と思われた。コロニアル風の、とは訳せば植民地風の、ということになるが、かつて仏蘭西領であったこの地で、すでに一流ホテルとして知られたこのホテルの歴史ある客室の一つなのだろう。落ち着いた調度も、その雰囲気を醸し出すのに一役買っていた。私に親近感を抱かせたのは唯一、TOSHIBA製のテレビである。

 

窓の外

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 窓を開けると、ホテルの内側に面したスペースが見受けられた。1975年のサイゴンの面影を探しに来た私にとっては、このような取り残された景観は良いものだった。いくつかの外国を旅行して、都会の景色には面白みが少ないと思うようになった。例えその土地に時計台やマーライオン等のランドスケープが存在しても、ビルだらけの街に感じる魅力は限られている。そういった面で言えば、ホーチミン市、かつてのサイゴンは辛うじて、往時の面影を残しているのではないか、と思わせるところがあった。急速な勢いで失われてきたその面影は今日も一つ削られ、10年後には完全に消え失せているかもしれない・・・。

 

大理石のバスルーム

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 バスルームは、大理石が使われていた。このように豪華なバスルーム入ったことは、これまでの人生にはなかった、と言っていい。気分が高揚して、鏡には私が見切れている。ミンさんとのバイク行でひどい日焼け(火傷)を負った私は、水風呂で身体を冷やし、街に出る。ホテルは立派で快適だが、ホテルで終日優雅に過ごすほど、私は優雅な日取りの猶予を持ち合わせていなかったからだ。

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 ホテルを出た私は、かつて動物市が軒を連ねていたというハムギ通りを歩きだした。かつての喧騒はなく、銀行などが居を構え、週休日に当たるこの日は、通りも閑散としていた。喧騒はどこだ!私は歩く。

 

 

サイゴンの特派員 友田錫〈下〉

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サイゴンの特派員

 

 平敷安常氏の「サイゴンハートブレークホテル」では、平敷さんが友田錫氏に送った質問に対する答えが紹介されている。質問内容は、「ベトナムへ行った動機について」「報道の姿勢ないし視線について」「友田記者にとってベトナム戦争とは何であったか」の3項目である。

 詳細はここで差し控えるが、友田さんも、近藤紘一と同じようにサンケイ新聞の社内留学制度でフランスに留学したことが記されている。また、友田さんのサイゴン滞在期間については、次のように述べられている。

サイゴン常駐特派員在任期間は、六十七年から六十八年。ただしその後も、七十四年まで毎年、三カ月ごとに南ベトナムカンボジアへ飛び、移動特派員として取材に当たりました

 この間にやはり、71年から74年にサイゴン支局長を務め、終戦時に臨時特派員として現地にいた近藤さんと友田さんの間には、密な交流があったと考えて差支えはないだろう。平敷さんは、サンケイ新聞に所属した二人について次のように書く。

こんな記者たちと組んで働いてみたいなぁ、と大抵の報道カメラマンは思うのではないだろうか。

 これは、言葉どおり最大級の賛辞が贈られたものと受け取るべきだろう。二人は、こんな人と働いてみたいな、と思われる人だったのだ。勤め人にとって、そのように思う人物がどれほどいるかと思う時、その言葉を実感することができるように、私には思えるのだ。

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サイゴン川/2018)

ジャーナリストの見るジャーナリスト

 

 私が、そんな友田さんと近藤さんの”つながり”を感じる文章を読んだのは、比較的最近の事だ。近藤さんの最後の単行本である「妻と娘の国へ行った特派員」を、私は「電子書籍」で読んでいた。

 改めて文庫版を手に入れて、電子版に収録されていない「解説」のあることに気がついた。この「解説」を書いたのが、他ならぬ友田さんだったのである。

 私は、この友田さんの解説が、近藤さんに対する最上の批評文であると考えている。沢木耕太郎が近藤さんの遺稿集「目撃者」に寄せた「彼の視線」は、近藤さんのある面を非常によく捉えたもので、私の感覚にも大いに影響を与えていると思う。

 しかしながら、沢木さん自ら語るように、沢木さんは近藤さんに会ったことはない。ごく近しい場所で近藤さんを見た友田さんの書く「近藤紘一」には、自らの目で見た事実を拠り所とする、具体的な力があるように思えるのだ。

 

解説 友田 錫

 

 友田さんの解説を読めば、野地秩嘉の書いた「美しい昔」には、全く描かれていない近藤さんの実像が浮かぶように思う。

物事を観察するとき、その視線の背後に愛情があるかないかで、見えるものが違ってくる。(中略)愛情のある視線は赤外線のような透徹力をおびている(中略)ジャーナリスト近藤紘一には、この力が備わっていた。

 透徹力のある視線を持つ者を見抜くには、透徹力が必要である、といえば逆説に過ぎるだろうか。これは、優れたジャーナリストが、冷静に一個人を評した表現であるように私には思える。

私はいま、ジャーナリストとしての近藤氏の内側を探っている。(中略)仕事の上でも個人的な関心の面でも、ともにベトナムという対象を離れがたいものに感じていた。それなのに、この尊敬すべきジャーナリストの資質のすべてを、外科医のメスさばきのように摘出して見せるのは至難のわざである。

 このように書く友田さんが、いい加減な文章を残すはずはないのではないか、そのように思えば友田さんの記述は全てが信頼に足るものだ。

すぐれたジャーナリストは、何よりも物事の本質を掬いとる能力のある人である。

 友田さんは、「すぐれたジャーナリスト」をこのように定義するが、まさに友田さん自身も優れたジャーナリストであったことに疑いはないだろう。私も日常生活で、少しでも本質を見据えて生きていければいいのだが、と思う。

 

 この文章で、わずかばかりでも何か掬えただろうか。

 友田錫記者の御冥福をお祈りします。

 

 

 

 

ヨーロッパ―民族のモザイク〈上〉

ヨーロッパ―民族のモザイク〈上〉