Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

サイゴンの特派員 友田錫〈上〉

 サイゴンの特派員 友田錫(ともだ せき)

  今夏、旅先で新聞をめくると、友田さんの名前を訃報欄で目にした。

友田錫氏

(ともだ・せき=元日本国際問題研究所所長、元産経新聞外信部長)

(中略)早大卒業後、東京新聞を経て産経新聞に入社、ベトナム戦争時代のサイゴン(現ホーチミン)特派員を務めた。カンボジアの故シアヌーク国王と良好な関係を築き、パリ支局長や外信部長を歴任。退社後は亜細亜大教授や日本国際問題研究所所長などを務めた。

 

 友田さんは1935年生まれの83歳で、近藤紘一より5つ年長である。私がその名前を初めて目にしたのは、司馬遼太郎の書いた近藤さんへの弔辞の中だった。

 

 ー君との思い出の中に、一九七三年、昭和四十八年四月のサイゴンの暑い日差しがあります。

 あのフライパンの上に人間たちを載せたようなかりそめの国の中で、君が、ピアノ線のようにはりつめた緊張を維持しつつ、市場を歩き、戦場を歩き、いつも斧のように鋭い貌をしていたことを終生わすれることができません。おそらくそういう君に毎日接していたこの席の古森義久氏や友田錫氏も同様の思いでありましょう。-

 

 「錫」という漢字が読めず、PCの手書き検索で調べたから、この名前は印象に残った。古森氏と並列されていることから、きっと親しい記者仲間であるのだろう、と思っていた。

 

司馬遼太郎ベトナム取材

  あるとき、司馬遼太郎の「人間の集団について」に友田さんが登場して、サンケイ新聞の外信部に所属していることがわかった。司馬さんも同紙の記者だったことがあるから、後輩に取材旅行の同行を頼んだ、ということであったらしい。

 

 司馬さんによると、友田さんは次にように評されている。

 友田錫氏は何度もベトナムへ行った人で、その美しいフランス語はベトナムの古い知識人たちが感心するところであった。彼はこの地上のすべての民族なかでベトナムの庶民がいちばん好きだという。かれはサイゴンの庶民に小児科医のようなやさしさで接した。そのくせ、渾身が観察眼のような人物で、その洞察力にしばしばおどろかされた。

 この文章は、「現地の支局長近藤紘一氏にはずいぶん世話になった。ー」と続く。

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(支局に近かった、かつてのツゾー通り/2018)

 

サンケイ新聞サイゴン支局

  友田さんの詳細がさらに詳しく書かれていたのは、以前の記事でも紹介した平敷安常の「サイゴンハートブレーク・ホテル」だ。平敷さんの記憶によると、友田さんは「近藤紘一記者の前任だった」という。平敷さんの記憶が正しいとすれば、近藤さんが前任者(=友田さん)について書いた一節があるな、と思いついた。「支局の主 中国人の女中さん(アカムさん)」と出会う場面である。

 赴任した私はまず前任者から、この支局の主に引き合わされた。

 アカムさんは、近藤さんいわく「自ら構築した文法体系と、独自に発明したボキャブラリーでフランス語を駆使する、創意に富んだ女性である。」という。彼女は、近藤さんが悪事(シャツに染みをつけたり)を行うと、「クペ・ラ・テット(首を切るぞ)!」と叱責する。

 私は前任者の十分の一も紳士ではなかったので、前任者の十倍以上、アカムさんに首を切られた。

 私は、この一文を読んで、友田さんは紳士なのであるな、と認識した。近藤さんの信頼を置く先輩記者である友田さんに、次回も触れてみたい。

 

<つづく>

 

 

 

 

100℃を超える岩盤

書き出しの動力源 

 文章を書くにはエネルギーが要る。ただ雑文を書き連ねるだけならば、さほどの事はないかもしれない。しかしながら、多少なり文章校正や、論理の整合性や、話題の完結性といったことをよくよく考慮すれば、容易に文章などは書けない、と思う。

 最初の一行が書ければ、文章が書けるということは、要はそういうことなのだと思う。私はいつも、このブログのことを気にかけている。多少なり、アクセスしてくれる人がいるのだから、と思う。前回書いた「池上彰の見るベトナム戦争」には、このブログにしてはずいぶんとアクセスが増えた。ただ一つの所感だけを綴った記事だけに、あまりアクセスがあると申し訳ない気持ちが先に立つ。果たしてその記事は公開に値するものだったか、と。

 今回の記事も似たようなものなのだが、「文章を書くにはエネルギーが要る」、と言い訳めいた文頭が浮かぶと、ひとまずは勢いに任せてキーボードを叩き出した次第だ。キーボードを叩く、という言葉は、「筆を執る」という言葉に比べるとどうして浅薄なのだろう。

 

吉村昭 

 近藤紘一に関わることは、すべて構想に留まっている。これを書きたい、と思う。それを形にするのは、自分の中で納得のできる論理が構成できなければならないし、想像力を働かせるにも、何らかの根拠は必要なのだ。例えそれが憶測にすぎないとしても、拠るところの一つもないものは、ただの空想になってしまうからだ。

 昨年からよく、吉村昭の著作を読んでいる。吉村昭の名前はよく、沢木耕太郎の著作に登場した。その著作「戦艦武蔵」は、ノンフィクションの傑作とも呼ばれているからだ。吉村昭は、綿密な取材に基づいて小説を執筆している。資料を精査し、事実を知る者に取材を行い、何が起きたのか、真実に迫る。「三陸海岸津波」「関東大震災」「零式戦闘機」「羆嵐」「桜田門外の変」と、その範囲は幅広い。

 

方法論の違い 

 しかし、吉村昭本人は、自身の著作をノンフィクションとは決して呼ばない。それは、沢木さんや近藤さんの言うところの「方法論の違い」によるのだ。吉村昭が描きたかったものを表現するには、職業的なノンフィクションライターが決して記載することのない「虚構」が必要とされたからだ。この人がこう言ってくれたならば・・・こう言ったならば・・・「ノンフィクション」に事実でないことは記載することができない。どんなに真実に肉薄しても、「こういったに違いない」という憶測を「本人」の台詞という嘘として記載してしまったら、その文章はノンフィクション足り得ないのだ。

 だから、吉村昭は「小説」を発表し続けた。方法はどうあっても、その文章が意図する方向性は同じだったに違いない。

 

高熱隧道 

 最近読んだ氏の著作は、「高熱隧道」という。辞書によれば、隧道とは、トンネルの漢語的表現、であるという。戦前、電力源確保のために黒部第三ダムを建設した際の記録小説である。

 タイトルどおり、このダム工事に当たって最大の難関は「高熱隧道」であった。雪深い渓谷、断崖絶壁の道に作業道や水路を開設するに当たっては、岩盤を掘削するしかない。

 しかしながら、この温泉地にほど近い地盤は、想像を絶する常識外れの高熱を持っていた。人が人力で掘削に当たるその壁の温度は、優に100℃を超えたのだ。水をかければフライパンのごとく蒸発するような高熱の地盤を、男たちは掘り進めた・・・