Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

漂流者達のアルバトロス

ドリフターズ 

 drifter 1 漂流者(者) 2 放浪者、浮浪者

 ドリフターという英語は、日本語が「漂流者」と「放浪者」を明確に区別するのと異なり、二つの意味を含有している。また、その複数形を表す「ドリフターズ」は、その言葉の意味するところを超えて、ずいぶんと明るいイメージを持つ言葉となった。

 さて、日本人が漂流者と浮浪者という別の言葉を生み出したのには、日本が島国であり、海洋国家であることに確かな理由があるように思える。陸の放浪と、海の漂流とは明らかに異質なものなのだ。

 

漂流記の魅力

 前記事で言及した「大黒屋光太夫」等の著作を持つ作家の吉村昭は、「漂流記の魅力」という作品のほか、6篇の漂流物語を書いた。それらはいずれも、史実に着想を得たものである。

 私は吉村昭のいうところの、漂流記の魅力というものを確かに感じる。漂流は常に悲劇的だが、漂流記の顛末を伝えた者は常に生還者である。数奇な運命を辿った物語の主役は、悲劇中の幸運に恵まれた、健全な精神を持つ日本人達なのだ。その過酷な旅路にあっては、人間の根源的なものが見え隠れする。

 

アルバトロス

 ところで、ゴルフという競技は、ホール毎に定められた「パー」という基準を下回り、打数を縮めていく。パー5のホールで、4打(-1)でボールがホールインすれば「バーディー」と呼び、3打(-2)でホールインすれば「イーグル」すなわち「鷲(わし)」と呼ばれる。その中にあって、ホールインワンよりも難しいと言われるのが2打(-3)でホールアウトする「アルバトロス」だ。

 アルバトロスは、日本で「アホウドリ」という不憫な名称で呼ばれる鳥の名だ。人が近寄っても警戒心を持たず、陸上では緩慢な動きをするためいとも簡単に捕獲できる。肉や羽毛は有用であって、乱獲によって絶滅寸前に追い込まれた。ところが、このアホウドリは、一度離陸すれば、高い飛翔能力で優雅に空を飛ぶ。日本人はその雄大な姿を見なかったのであろうか。草創期のゴルファー達は、イーグルを上回る偉業を称えるため、「アルバトロス」という呼称を作った。

 東京都の南500kmに、鳥島(とりしま)というアルバトロスの楽園があった。この、人の住まぬ絶海の孤島に流れ着いた漂流者達がかつて、いた。

 

無人島長平

 鳥島は、とある海流の流れ着く場所らしい。土佐の長平も、その一人であった。1758年、土佐近海を航行中に嵐に巻き込まれ漂流した船は、鳥島に漂着し、その船体は、時を同じくして岩礁によって破砕された。何も持たぬ長平たちにとって、島に生息するアホウドリは命の鳥であった。この渡り鳥が去った後、再び戻ってくるときに彼は歓喜した・・・生還までの彼の漂流生活は、13年に及ぶ。その詳細は、吉村昭の「漂流」に詳しい。

    この「漂流」は、1975年、サンケイ新聞に連載されていた。

 

漂流 (新潮文庫)

漂流 (新潮文庫)

 

 

地の漂流者たち

 私は、漂流ということを考えた。月並みな考えだが、漂流とは、恐ろしいものだ。ほとんど何の道具や食料も持たず、指針もなく、拠り所もない。沢木耕太郎ルポルタージュを集めた作品に、「地の漂流者たち」というものがあるが、地上を「漂流」するように生きることは辛いことであるに違いない、と改めて思った。

 例えば、沢木耕太郎の旅は移動する旅だ。旅とは基本的に、行って帰ってくるものだ。帰る場所が、確かにある。現代ならば、チケット一つで「終わらせる」ことができるのだ。

 また、近藤紘一の事を考えた。近藤紘一にとって、前妻の死は漂流の始まりだったのではないか、と思えた。錨が切れ、舵が流れ、帆柱は倒された。漂流中の救いはヘミングウェイで、漂着した都市はサイゴンだった。

 サイゴンでの生活は困難に満ちたものであったかもしれないが、近藤紘一は、新たな家族という帰るべき場所を仏さまの思し召しによって再び見つけることができたのではないか・・・

 あるとき、近藤紘一は、妻子を載せた飛行機の姿を見て、帰還したアルバトロスに欣喜雀躍する漂流者達の気分を感じたかもわからない。

 

 漂えど 沈まず

 

そこには、漂流から生還した者だけが見える景色が、あるのかもしれない。

 

 

 

漂流記の魅力 (新潮新書)

漂流記の魅力 (新潮新書)

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

必携の書2

大黒屋光太夫

 必携の書とは、「その人にとっての」と冠をつけるのがより正確かもしれない。急に歴史上の話になるが、1792(寛政4)年、松平定信が老中を務める時代のこと、ロシアのラクスマンが日本の漂流民大黒屋光太夫を伴って根室に来航した。

 教科書では1行で綴られるこの出来事だが、光太夫の旅路はとても1行で語り尽くせるものではない。紀州から江戸に向かった船が大時化に遭って大破漂流する運命に呑まれたのは、1782年のことである。

 飢え、渇きに耐えてアリューシャン列島に到達するまで8カ月。上陸後も、わずかに肌を曝しただけで凍傷を負う極寒の大地で過ごす9年という月日のうちに、17人の乗組員はわずか3人となっていた。さらに、3人のうちの一人も根室停泊中に壊血病で倒れ、故郷を目前に命を落とした水主に多くの人が涙したという。

 

必携の書ー大黒屋光太夫ー

 光太夫には、必携の書があった。嵐に遭い、舵が流れ、帆を切り倒し漂流する。仲間が死に、原住民の争いに巻き込まれ、想像を絶する極寒の土地で家々を転々とし・・・こうした激動の10年、彼は本を手放さなかった。船が海の藻屑となり、着物が羅紗の衣服に変わっても、彼の手元には当時の辞書である「節用集」と数冊の浄瑠璃本があった。節用集に収録された懐かしい文字と、その意味するところを何度となく読み返したに違いない。

 

近藤紘一の必携の書

 これは以前、齋藤茂吉の「万葉秀歌」とレマルク凱旋門であることを以下の記事に書いた。そして、前回記事を書いた時点で全く気付いていなかった事実に、司馬遼太郎の著作に触れて気がついた。

majesticsaigon.hatenablog.jp

 

『人間の集団についてーベトナムから考えるー』

 同書は、司馬遼太郎が1973年4月1日から3ヶ月間のサイゴン滞在を元にした、ベトナム見聞録といったものである。いかにも随筆といった趣がある。司馬の到着日の前日に米軍がサイゴンから完全撤退しており、街で米兵の姿を見ることは全くなかったという。時は、サイゴン崩壊まであと2年ー。

 近藤紘一と司馬遼太郎 - Witness1975’s blog

 

支局長 近藤紘一

 この作品はサンケイ新聞に連載された(1973年4月から連載されており、現地で執筆されていたようだ)。はじめ司馬遼太郎夫妻は、旅行のつもりで訪れようとしたが、戦争中の国であるから、新聞社に諸事を頼んだ方がよい・・・と、かつて夫妻が所属したサンケイ新聞社に声をかけたということらしい。

 当時のサンケイ新聞サイゴン支局長が、近藤紘一であった。現役の特派員である近藤に代わって司馬に同行したのは、サイゴン支局の特派員OBであり、司馬にとっては後輩に当たる友田錫(ともだせき)記者であったようだ。司馬の書いた近藤の弔辞に、友田氏の名前が挙がっていたことに合点がいった。

 

久保田実医師

 友田記者以上に、ベトナムにおける司馬氏と関わっているのは、南ベトナムで医療活動に従事していた久保田実医師である。作中たびたび登場する当時30代の久保田医師には、必携の書があった。それは、「万葉集」と「凱旋門」であった。

 

不思議な合致

 近藤紘一と久保田医師はともに、必携の書に万葉集と、凱旋門を選んでいたのだ。久保田医師にとっての万葉集も、近藤紘一にとっての万葉集と同じように、それは自分があくまで「日本人であること」を確かめる書であったかもしれない。

 そして、気付いたことは、「凱旋門」の主人公が「外科医」であるということだった。もぐりの医者であるラヴィックは「病院から呼ばれ、手術が終われば影のように消える」・・・さしずめフランスのブラック・ジャックだが、フランスを旧宗主国とする南ベトナムで、凱旋門の頁をめくる医師久保田実と、医師の家系に生まれながら医師にならなかった新聞記者近藤紘一。サイゴンで奮闘した二人の日本人にとって、凱旋門はどのような意味を持っていたのだろうか。

 

夢見た旅と余儀ない旅 

かつて私は、旅を「余儀ない旅」と「夢見た旅」に二分したことがある。強いられて余儀なくする旅と自らが望んでする旅との二つがあると。
だが、それはひとりの人物が常にどちらかの旅をしているということではなく、あるときは「余儀ない旅」をし、あるときは「夢見た旅」をするということであった。

沢木耕太郎

 

 漂流とは「余儀ない旅」の最たるものだ。大黒屋光太夫の旅は、徹頭徹尾「余儀ない旅」であった。一方で、彼は常に夢を見ていた。いつの日か、故郷の土を踏み、故郷の海や、梅の花を見たいー

 近藤紘一のサイゴンでの日々は、余儀ない旅の性格を持っていたようにも思える。光太夫と違って、航空機に乗ればわずか1日で日本で帰ることもできたのだ。それにもかかわらずー

 

 

・・・自ら希望して任期を延長しながら、その一方では晴れて勤めを終えてタンソンニュット空港を飛び立つ日を、心から夢見たことも少なくなかった。

 そんなとき、私はよく下町を歩いた。(中略※サイゴンで生きる人々の人生は)帰りの航空券をポケットにしてこの土地に足だけ引っかけている私自身のそれよりは、はるかに悲痛で凄絶なものであるはずだった。そんな人々からふと気恥かしげに微笑みかけられたり、思いがけぬ気遣いを受けたりするたびに、私は、そのために生きるに値するものをかいま見るような気がした。

 

サイゴンから来た妻と娘 あとがきより)

 

 

 近藤紘一は、余儀ない旅を必携の書とともに過ごすうちに、妻と娘に出会い、南ベトナムサイゴンで暮らす人々に触れ、書を捨てて、街に出よう、と思ったのかもしれなかったー。

 

 

人間の集団について―ベトナムから考える (中公文庫)

人間の集団について―ベトナムから考える (中公文庫)

 

 

 

大黒屋光太夫 (上) (新潮文庫)

大黒屋光太夫 (上) (新潮文庫)

 

 

 

旅の窓 (幻冬舎文庫)

旅の窓 (幻冬舎文庫)