Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

晩年の父台五郎と、近藤紘一

医者と息子

  私は近藤紘一の著作を読んでいて、家族の話題であっても、近藤さん側の親族がほとんど出てこないことに多少の違和感を覚えていた。その違和感は、おそらく近藤さんは医師である父近藤台五郎とはあまり良い関係にないのではないか、という邪推と置き換えても差し支えない。

 「医師である父と、跡目を継がない息子」という関係性は、いかにもステレオタイプな、不仲の親子の類型に思える。まして外国人の妻と娘を勝手に連れ帰ってきたのだから、父親が古風な考えを持った人物であれば、円満な関係を築くことは難しい側面があったのかもしれない、と考えた。

 

胃がんの権威

  近藤台五郎は、東大病院に務め、「胃がんの権威」とも言われるその道の専門家だった。その息子である近藤さんが、よりによって胃がんで亡くなるというのは、あまりにも皮肉な話ではないかーー、と思われた。この親子は、ついに和解することはできなかったのかもしれないという私の憶測に、死因が拍車を掛けた。

 しかし、これは悲観的に過ぎたのかもしれない。近藤紘一の遺稿集「目撃者」に収められた非常に短いエッセイの中に、「異国暮らしのあとの久しぶりの故郷」という文章がある。長い間南の国で暮らした後に、紘一が「故郷のようなもの」と呼ぶ湘南、逗子に帰り、20年ぶりに両親と暮らした時の文章である。高度経済成長期、田舎とは呼べなくなりつつあったこの地域への感慨と共に、年老いた父に対する想いも述べられている。

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峻烈  

  ここで、冒頭の推測は正鵠を得ていたと思わせる記述がある。近藤さんは、父台五郎を次のように形容する。

常に巌のように傲然と私の前に立ちはだかり続けていた峻烈で冷厳な“壁”

 医学界に残した功績も大きいが、おそらく厳格な人物であったのだろう。しかし、そのエッセイで、台五郎は近藤さんに向かって声を掛ける。

「ときにお前、もう少しこの家で羽根休めするんだろうね」

 近藤さんは、あるいはこの言葉に、父の老いを感じ、時の流れの冷酷さを感じたのかもしれないが、これは時間の経過による和解とも言えなくはないのではないか、と思う。

 そして、近藤さんが胃痛を訴え続けていたころ、台五郎はしきりに病院での受診を勧めていたという。息子の心配をする尋常な父親の姿が、そこにはあったのだ。

 

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無名

   ところで、沢木耕太郎は、父のことを「無名」という作品に書いた。近藤さんにもその時間があったなら、と思わずにはいられない。そこにはきっと、確かな物語が描かれただろう、と思う。

 

majesticsaigon.hatenablog.jp

「美しい昔」への反論①

「美しい昔」への反論

 

 沢木耕太郎開高健司馬遼太郎のほか、古森義久ら近藤紘一と同時期にベトナム戦争を取材した者達によって、近藤さんについて言及された本が複数存在している。その全てを把握するにはしばらくの時間がかかりそうだが、こうした「近藤紘一関連本」のひとつに、野地 秩嘉という人が書いた、「美しい昔 近藤紘一が愛したサイゴンバンコク、そしてパリ」という本がある。タイトルに近藤紘一の名を冠した本は現在、1冊のみであると思われる。

 以下は本の背表紙にある内容紹介である。

伝説のジャーナリストの足跡を世界に追う
伝説のジャーナリストの足跡を追って、ベトナムバンコク、パリなど世界各地を旅した五年間の精緻な紀行録。一九七九年に 大宅壮一賞沢木耕太郎と同時受賞したことで知られる近藤紘一は、受賞作『サイゴンから来た妻と娘』を始め多くの著作を発表しながら四五歳で早逝する。作家は彼の生きた時代と波乱の人生を解き明かす旅に出た……。「彼が心底気になっていたのはベトナムというテーマからいずれは脱皮しなくてはならないことだった」(本文より)日本航空機内誌の人気連載を大幅加筆、ゆかりの地の写真も多数収録した一冊。

 

何故、書かれたのか 

 

 そして、この本を読んで私は憤りを感じた。故人を貶めるために、この本は書かれたのか?

 本当のことは、わからない。

 しかし、何冊も本を出しているような人物が、このようなものを書いたとはとても、思えなかった。そこで私は、以下のような文章をAmazonのレビューに書いた。この作品が、近藤さんについて書かれた最も新しい部類の資料であるのに、近藤さんの著作に感じ入った人達が、最後に読む文章がこんなものでは・・・

 だから、このブログは、少しでもこの書に対するアンチテーゼであるように、と思っている。

 

 著者は、この本で何を伝えたかったのか。

 

 本書の中では、サイゴンから来た妻ナウに、好意的な記述はほぼ見られない。そればかりか、書名にある近藤紘一氏に対しても、好意的とは言えない記述が目立つ。
 また、近藤氏の著作で書かれていることに反する記載についても、その根拠は薄弱で、悪意を感じさせる憶測に満ち満ちている。
一例を挙げると、著者は、「(当時のサイゴンでは)戦争続きで街に若い男がいなかった。外国人の男は誰でもモテモテだった(中略)国を出たい女の子が大勢いた」という、パリのチャイナタウンのオーナーの発言に対し、「目からうろこが落ちた」と述べた上で、近藤とナウの出会いとその後の生活に対する基本理解としているように思える。
 本書では全体を通じ、近藤氏の遺稿集「目撃者」に収められた司馬遼太郎氏の弔辞や、編集者である沢木耕太郎氏があとがきで述べたような、近藤紘一に対する尊敬の念や、親愛の情を感じることも難しい。
 近藤氏の著作ではわからなかった事実がいくつか明らかになるものの、これは蛇足に過ぎない。本書におけるほぼ唯一と言ってもいい光明は、終盤のインタビューにより、娘ユンから、父紘一への感謝と愛情が素直に示されている点だ。しかしここでもなお、父母の対比によって、読者のナウ氏への心象を悪化させている。

(ブログ管理人 藤沢遼一)

 

「美しい昔」 

  「美しい昔 近藤紘一の愛したサイゴンバンコク、そしてパリ」という本のタイトルに採用されている「美しい昔」の由来は,ベトナムの作曲家チン・コン・ソンの曲名に由来すると考えられる。この曲は,NHKドラマとなった「サイゴンから来た妻と娘」の主題歌にも採用された。NHKの倉庫に眠っているはずの、このドラマを一度見てみたいものだ。 

 さて、近藤さんの妻である近藤ナウ名義で書かれた「アオザイ女房」に、この曲について述べられた箇所がある。この「アオザイ女房」では,ナウさんの口語調で,日本とベトナムの生活習慣の違い,ベトナム南部ではアオザイの発音が「アオヤイ」とその発音が清音であること,ベトナム料理のレシピ等について述べられている。

 この作品は、ナウさんの書いた文章を、「ダンナサマ」である近藤紘一がさっと訳した上で、本間さんという共通の知人の手によって日本語にまとめたものだという。とても優しい口調で書かれた素敵な本である。

 

タイトルへの疑念「バンコク

  さて,書名である「美しい昔 -近藤紘一の愛したサイゴンバンコク,パリ」の副題について考える。このタイトルを見て感じた違和感は、近藤さんがバンコク,そしてパリを愛していただろうか…ということだ。

 近藤さんは,微笑みの国タイの首都バンコクでは,入居先の確保に難渋した事に端を発して,現地にどうにも馴染めない事,引っ越しも半ばに極寒のテヘランへ向かわされたこと,高湿度の環境の中で度々熱病に苦しめられたこと等を数多く文章で残しており。近藤さんにとってのバンコクは、快適な土地とは言い難かったのではないか、と思われるのだ。

  

タイトルへの疑念「パリ」

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 そしてパリ,である。近藤さんにとってのパリは,前妻の浩子さんと過ごした思い出が色濃く残る土地であって,このことは妻と娘シリーズの最終作となる「パリへ行った妻と娘」の中でも折に触れられている。

 あるいは、近藤さんにとってパリは重要な土地であったかもしれないが,足を運ぶのが躊躇われるほどの場所が残る土地を,「愛した」などという言葉で語れるだろうか、という疑問が拭いえない。著者は,「語感の良さ」のみを選考基準にタイトルを選定したのではないか。

 

躊躇いの街

  近藤さんの担当編集者であった新井信によれば、記事ではなく「創作」に限れば近藤さんの原稿は早かったというが、「パリへ行った妻と娘」の執筆に関しては、近藤さんも筆を進めるのに些か苦労したのではないか、と私は思う。

 その舞台がパリであることが多分に影響しているからか,本書の内容は当時の近藤さんが、心情的にノンフィクションで書き得る範囲を超えてしまったのではないか。

 同種の指摘をされていた沢木耕太郎氏の影響は排しえないが,このとき近藤さんはやはり小説,フィクション,創作といった新たな「装置」の存在を必要とするようになったのではないだろうか,と思う。

 

2018年5月12日更新

 

パリへ行った妻と娘 (文春文庫)

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アオザイ女房―ベトナム式女の生き方 (1978年)

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アオザイ美人の仮説 -おもしろまじめベトナム考

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