Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争

「戦争」とは何か 

 多くの日本人が思い浮かべる「戦争」は、遠くの国で起こっている戦争か、食糧難に苦しんだ記憶を持つ「当時の子供たち」から語られる第二次大戦末期から終戦にかけての日本の姿だと思う。

 「戦争はしてはいけない。」そんなことは至極当然のことだが、「国を守らなければならない。」という考えが、同様に当然なものと受け止められているかは疑問だ。現代において、侵略戦争はなくなったとも言われるが、歴史を鑑みれば、力の空白は常に弱者を戦争に巻き込んできた。

 

学ぶべきは 

 私は、日本人がもっと学ぶべき戦争があると考えている。「日露戦争」と「朝鮮戦争」である。日露戦争でも、日本陸軍兵站は伸び切っており、ロシア勢力は強大で、ロシア国内の内圧の高まりと、日本海海戦での会心の勝利がなければ勝利という結果は極めて覚束ないものだった。特に注意すべきは、一般市民が戦争の幕引きに強く反対していたことだ。

 そして「朝鮮戦争」について私は知っていた。朝鮮戦争の勃発による戦争景気が、戦後日本の経済復興に大きく寄与した、ということだけを・・・。

 

デイヴィッド・ハルバースタム 

 私は、朝鮮戦争について何も知らない。戦後日本の歩み出しについても何も知らない、ということを痛感したのは、「PANA通信社と戦後日本」という一冊の本を読みたいと思ってからだった。PANA通信社には、近藤紘一の従兄弟である近藤幹雄も大きく関わっていた。近藤幹雄が国連軍の従軍記者として参加した朝鮮戦争とは、いかなる戦争だったのか。どうしても前提知識が必要になった。

 そこで私が手にしたのが「ザ・コールデスト・ウインター朝鮮戦争」である。上下巻1200ページを超えるD・ハルバースタムの力作を読み進めるのに、私はかなりの時間を割いた。入門書なら他にもあるが、なぜハルバースタムなのかといえば、「サイゴンから来た妻と娘」にその名が登場するからである。ベトナム戦争も取材したハルバースタムが、兵士たちが戦場で(食べるための)子ブタを抱えながら共産軍から逃げる兵士の姿を描いたことを、近藤紘一が紹介していたのだ。

 ハルバースタムは、ニュージャーナリズムの旗手として名を馳せた人物で、膨大なインタビューと取材に基づく作品を数多く送り出した。

 

 

 

朝鮮戦争 

 以下、朝鮮戦争の概要を私が理解した限りで、ざっくりと箇条書きする。

 

①日本敗戦後、北朝鮮がロシアに、韓国がアメリカによって「分割統治」される。

金日成北朝鮮と李承晩の韓国が「独立」する。

③1950年朝鮮統一を図る金日成が、韓国側に攻め込む(北侵)

北朝鮮軍が大戦後の軍縮で弱体化した米(国連)軍を韓国南部まで追い詰める。

⑤深刻な事態にテコ入れを図った米軍が中国国境付近まで押し返す。

⑥中国の義勇軍という名の中国軍が参戦し、米軍を38度線以南まで押し返す。

⑦38度線で戦線が膠着し、1953年に休戦

(誤りがあれば、御教示願いたい。)

 

驚きの弱さ 

 私がまず驚いたのは、開戦時の米軍が余りにも弱いことだ。そもそも、アメリカのアチソン国務長官が発表した「アメリカの防衛ライン」に韓国を含めなかったことが、スターリン金日成の「北侵」に暗黙の了解を与えることにつながった。戦後の軍縮で予算が大幅に削減された米軍の装備は貧弱で兵士の錬度も低く、急に攻め込んできた北朝鮮軍を相手に退却を強いられる。第二次大戦時の、あの合理的な米軍の姿はどこにも見られない。

 また、極東司令官のマッカーサーが絶対権力を握り、トルーマン政府の意向さえ届かない東京ではマッカーサーの取り巻きがご機嫌取りに奔走していた。その様子は大本営発表を続けた日本の軍部の姿を彷彿とさせる。マッカーサーは、現実を自分の見たいようにしか見なかった。

 戦後、吉田茂白洲次郎が戦っていたGHQは、まさにこのマッカーサーの取り巻き連中であったのだ。 

 

マッカーサーの判断 

 上記④-⑤間で、米軍がソウルを奪還して38度線に辿りついたときに、マッカーサーが以北への侵攻を行わなければ、朝鮮戦争終結し、以後数年の泥沼の戦いもなかったかもしれず、池上彰は「これがなければ世界が変わったかもしれない」と述べていた。

 もっとも、そのマッカーサーの判断が結果的に日本の戦後経済復興に大きく貢献したのは、歴史の皮肉と言えるかもしれない。

 北朝鮮の冬は寒い。マイナス20度から30度にもなる極寒の戦地で、十分な装備も与えられず、多くの若者が亡くなった。第二次大戦や、ベトナム戦争を戦った者達のような栄誉を得ることもなく・・・。