Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

ギュウ詰めのスズメ。

鳥が好き 

 私は、たぶん鳥が好きである。その辺に鳥が飛んでいれば、何の鳥だろう?と思う。スズメ、ヒヨドリハクセキレイ、まあカラスはどこにでもいるが、カッコウ、ウグイス、カワセミやヒタキも何度か見たことがある。

 その鳥の名を知らなければ、みんな「あ、鳥だ」としか言わない(思わない)から、身近なあの鳥は「○○だ!」と思う私は、おそらく鳥が好きなのである。このブログでも「ゴ・ジン・カンのオウム」について書いたことがある。もちろん、近藤さんの「目撃者」に収められている「独裁者のオウム」のことだ。

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トリノトリビア 

 最近、私が心を掴まれたのは「トリノトリビア」という本だ。昨日まで、上野で行われているゴッホ展を見に行くために小林秀雄の「ゴッホの生活」を読んでいたのを放擲して、つい、読み進めている。コンテンツの半分は、かわいらしい漫画である。

 例えばスズメのトリビアを一つ。スズメは砂地で何かをついばんでいる。草の種でも飛んできているのか、と思っていたが、あれは本当に砂を食べているらしい。砂が、消化を助けるのだそうだ。恐竜は消化を助けるのに石を食べると聞いたことがある。やはり鳥は、現代の恐竜なのだ。

 

スズメのこと

 日本では、身近な鳥の代表はスズメだ。とてもかわいい。「トリノトリビア」にも、身近なスズメのエピソードが多数登場する。私が思い出すのは近藤さんの「サイゴンのスズメとテヘランのスズメ」だ。周知のように近藤さんは、動物たちが大好きで、スズメにフィーチャーしてくれたのが、この回だ。

スズメという鳥は、私が知るかぎり。世界中どこの街にもおり、なかば人間社会に融け込んで暮らしているが、ちょっと注意してみると、その姿形や対人関係の質や濃淡は、国により土地によりかなり異なる。

 当時のサイゴンでは、市場でぎゅうぎゅう詰めにされたスズメにお目にかかれたという。ぜひ原文を読んでもらいたい。とにかく、サイゴン市場のおばさんたちによって、ぎゅうぎゅう詰めにされて気の毒なのである。それでもって、スズメはうまいらしい。近藤さんが言うなら、私も食べてみたい。かわいそうだけれど・・・それとこれとは、別のお話だ。

 

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各地のスズメ

 サイゴンバンコク、パリのスズメ。近藤さんも様々なところでスズメに出会ったが、私も近藤さんの著作に出会うまでに、いくつか諸外国の雀に出会った。やっぱり日本のスズメとはどこか違う気もする。

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 2枚の写真のスズメは、パリのスズメだ。近藤さん曰く-

 パリのスズメもみすぼらしい。公園で物欲しげにベンチの周りをうろついてる奴らの体色が少々緑がかって見えるのは、パリジェンヌのダイエットにならってサラダばかり食べているせいなのか。

 一方、誉められているのはー

 私がこれまでに見た中で最も立派なのはテヘランのスズメ達だった。

  と、テヘランのスズメ達である。いつかテヘランを訪れ、日本から何しに来たんだ?と聞かれたら、「ちょっとスズメに会いにね」と言うのも面白いかもしれない、などと思ってみた。スズメは英語で、「sparrow」だ。忘れないでおこう。

トリノトリビア 鳥類学者がこっそり教える 野鳥のひみつ

トリノトリビア 鳥類学者がこっそり教える 野鳥のひみつ

 

 

君は、PANA通信を知っているか。

報道写真家 近藤幹雄

  近藤紘一や沢木耕太郎の担当編集者を務めた元文藝春秋社の新井信が、新装版「サイゴンから来た妻と娘」に寄せたあとがきに、次のような一節がある。

 私は近藤紘一のいとこである近藤幹雄氏に声を掛けられた。隠していて申し訳なかったが、実はガンの末期であり残り時間はもう余りない、このことをあなたから友人たちにも伝えてほしいという依頼だった。幹雄氏は報道写真家として活躍した人でもあり、彼が一番頼りにしていた相談相手である。

 近藤さんが頼りにする幹雄さんは、著作中にも何度か登場している。例えば近藤さんが急な取材で日本を離れるようなとき、日本に残す家族の事を幹雄さんに頼んだかもしれない、そんな風に私は想像していた。

 どのように「報道写真家として活躍」していたのだろうか。大宅文庫で調べると、「サンデー毎日(1965.1.10)」に岡村昭彦との対談記事を見つけることができた。記事によると、幹雄さんは1952年、朝鮮戦争の際に「初従軍」をした。米軍打倒の教育を受けながら、国連軍の従軍記者として戦場に立つ幹雄さんの心境は、当初複雑なものであったらしい。

majesticsaigon.hatenablog.jp

 

PANA通信 

 私が「PANA通信」という聞きなれない名前を知ったのは、以前記事に書いた平敷安常の「サイゴンハートブレーク・ホテル 日本人記者達のベトナム戦争」による。

majesticsaigon.hatenablog.jp

 

その名が 松下電器産業が名を変えたPanasonicと関係がないのは自明だったが、幹雄さんが社長を務めたこの通信社はいったいどのような存在だったのか。

 PANA(Pan-Asia Newspaper Alliance)、訳せばアジア広域新聞同盟とでもいうべきこの通信社は、中国系アメリカ人ジャーナリスト宋徳和(ノーマン・スーン)が、「アジア人の、アジア人による、アジア人のためのニュースを」と、設立したもので、1949年香港に本社、東京に支局が置かれた。

  

伝説の通信社

  今となっては想像しがたいことだが、戦後しばらくの間、日本のジャーナリストは海外取材をすることができなかった。そんな時代に大きな役割を果たし、日本の復興とともにその役割を縮小させていった通信社があった・・・私の中で、PANA通信はその詳細の掴めぬ伝説の通信社となっていた。しかも、その通信社の社長を務めたのは、他でもない、近藤さんの頼りにする男なのだ。

 そんな折、非常に嬉しいことに、このブログにコメントを頂いた。「PANA通信社と戦後日本 汎アジア・メディアを作ったジャーナリストたち」と言う本が2017年に刊行されていること知った私は、その本を早速買い求めた。

 

PANA通信社と戦後日本: 汎アジア・メディアを創ったジャーナリストたち
 

 

 

第二章 六〇年代のPANA通信社 -戦後写真報道と近藤幹雄の挑戦-

  第二章を割いて、幹雄さんを中心に書かれているが、章の冒頭に、近藤幹雄さんの生い立ちについて書かれており、私はまずその点について目を通した。父祖につながる生い立ちは、当然ながら従兄弟である近藤紘一の系譜とも重なるもので、一読した結果、この本が十分な調査を行い、正確に書かれた信頼のおけるものであることがわかった。読むのが楽しみな本が眼前にあるということは、幸福なことだと、私は今思っている。