Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

サイゴンハートブレーク・ホテル

ハートブレーク・ホテル

 「(サイゴンで)「ハート・ブレークホテル」は、若い日本人記者達の仮の棲家であった。(中略)単身赴任の商社マンや歴代の特派員達が住んだ。私自身も二年近く住んだ。解放軍のロケット砲弾も時々落ちてくる場所だったが、住めば都だった。単身赴任の寂しい記者たちが競い合い、励まし合うそんな雰囲気を「ハートブレーク・ホテル」と私は名づけ、ひそかにそう呼ぶ。」・・・「大南公司アパート」という5階建ての雑居ビルをこう名付けたのは、2009年に刊行されたデビュー作「キャパになれなかったカメラマンーベトナム戦争の語り部たちー」で、第40回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した平敷安常である。平敷は、ベトナム戦争にアメリカABC放送サイゴン支局のカメラマンとして、10年に渡って活動した。

 

日本人記者達のベトナム戦争

 気にかけているものに眼が行く、ということは実際にあるらしい。私は久しぶりに訪れた図書館で、吉行淳之介の作品を探していたのだが、通りがけの通路で「日本人記者達のベトナム戦争」という文字が眼に入った。「サイゴンハートブレーク・ホテル」の副題である。近藤紘一の名前はないだろうか・・・私はその場で目次を開くと、見覚えのある字面があった。「PANA通信」という名の通信社が、かつてあったのだ。

 

PANA通信

 私がこの通信社の名前を知っているのは、近藤紘一の従兄弟である近藤幹雄がPANA通信に関わっていたからである。しかし、その関わりがどういったものなのか、PANA通信と言うのはどういった会社であるのか。これは後に時事通信の傘下に入ったということを除いて、インターネット上ではほとんど情報がなかった。

 ところが、この「サイゴンハートブレーク・ホテル」によって多くの情報を得ることができた。PANAとは「PanーAsia Newspaper Alliance」つまり、アジア広域新聞同盟とでも直訳しておくが、最初は東南アジアの国々で発行されている中国語の新聞にサービスしていたが、1950年代半ばに「PANA写真部門」が創設されたという通信社であり、太平洋戦争後に日本のジャーナリストが海外での取材が不可能だった時期に、朝鮮戦争などの報道を行い、大きな役割を果たしたものの、日本経済の復興とともにその役割を縮小していったという・・・。

 

近藤幹雄

 そんな折の1962年、PANA通信の社長に32歳で就任したのが近藤紘一より10年年長の近藤幹雄であった(幹雄はPANA通信創業者のノーマン・スーンの愛弟子だった)。自身が「朝鮮戦争を取材した経験を持つ戦場カメラマン」でもあった幹雄は、「燻り始めたインドシナ半島の報道に力を入れ、優秀な特派員を次々に送り込んだ」という。近藤紘一にとっては、身内にインドシナ報道の先駆者がいたことになる。1967年にサイゴンを経由してパリに向かった紘一が、従兄弟からサイゴンを見て行け・・・と言われたかどうかは分からないが、やはり何らかの影響を受けていたとしても、不思議なことはあるまい、と思う。

 

<続>

 

サイゴン ハートブレーク・ホテル 日本人記者たちのベトナム戦争

サイゴン ハートブレーク・ホテル 日本人記者たちのベトナム戦争