Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

サイゴンのちょっと短い日①(2018ベトナム訪問記)

タンソンニュット空港

 

 南ベトナム政府軍がベトナムの中部高原諸省を放棄し、対立を続ける南北間の争いに生じた変化のために、近藤紘一がタンソンニュット空港に降り立ったのは、1975年3月23日のことだった。

 それから約43年後の2018年3月8日深夜、バニラエアJW105便で私はタンソンニュット空港に降り立った。5000円をベトナムドンに両替してから、国際線の到着ゲートを抜けてベトナムの空気を吸うと、空港の建屋に日の丸が埋め込まれているのが目に付いた。現在の国際線ターミナルは、2007年に日本のODA、政府開発援助で建立されたものらしかった。

 熱帯特有の空気を確かに感じながら、控えめに声を掛けてくるバイクタクシーの誘いを断り、薄暗い道を抜けて空港敷地を後にした。

 

サイゴンへ・・・

 

 私はいつかサイゴンに来たかったし、一方で訪れたくないような気もしていた。私の中には近藤さんの著作を通して得たサイゴンのイメージがあり、「そのままのサイゴン」が、ベトナムの統一や、40年以上もの月日を経て残っているはずはないと思えたからだ。高層ビルが立ち並び、すっかり現代の観光都市となっていると思われるサイゴンのイメージを手に入れて帰ってくることに一体どれほどの意味があるのか。

 それにいつか、自分が「再生」したいと思ったときのために「(訪れるのを)とっておきたい」という気持ちもあった。

 また一方で、ベトナムに行ったこともないのにこんなブログを書き続けるのもどうかと思われたし、バニラエアの台湾経由ホーチミン路線がこの3月で廃止になることも知った。・・・つまり結局は、こうしたことの総合のうちに私はサイゴンにやって来たのだった。

 

Mi Lin Hotel(ミーリンホテル)

 

 現地時間は、2時を過ぎていた。深夜のホテル探しも、移動も遠慮願いたかったので、空港から近く安価なホテルを事前に探し、1泊15USDで24時間チェックイン対応している「ミーリンホテル」を予約しておいた。

 勘を頼りに10分ほど歩くと、細長いホテルが見つかった。ホテル前でスマートフォンの動画を見ていた青年が私に気付くと、ホテルのドアを開けてくれた。ベトナムでは通例のようなのだが、パスポートはフロントに預け、チェックアウト時に返却されると説明を受けた。

 通された2階の部屋に荷物を置き、20~30メートル先のミニストップで買い物をするためグラウンドフロアへ降りると、先ほどの青年がロビーに小さな寝床を作っていた。どうやら、その日の最後にチェックイン予定だった私の到着を待っていてくれたらしかった。

 一声かけ、急ぎ買い物をして戻ってきたのだが、部屋の鍵が開けられずに再度手を煩わせることになった。それでも嫌な顔一つせず鍵を開け、「Good night」と言って部屋を後にした青年の態度に私は好感を持った。

 部屋には窓がなく特別きれいでもなかったが、親切なスタッフのいるホテルに1500円程度で泊まれるのだ。私はいい気分で眠りに就いた。

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市中へ

 

 朝起きて腕時計を見ると8時だった。日本との時差は2時間なので、現地時間は朝の6時と言うことになる。朝から、昨日コンビニで買ったビール「333」を開けてみた。昼朝からビールを飲むと、なんだか異国に来た気になる。

 このビールの値段は13,000ドンだったから、日本円で約65円。これを一つの物差しに過ごそうと思った。

 早朝のうちに、市中へ向かおうとホテルの支払いを済ませ、空港のタクシー乗り場へ向かう途中に最初の驚きがあった。通りには、噂にたがわぬバイクの群れと騒音が溢れていた。中心部は、どんな街だろう?

 私はシャトルバス乗り場で、「マジェスティックホテル」と告げた。

 

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アンドレ・マルロー

「見ろ、マルローだ。」

 

 パリの近藤紘一は、コンコルド広場から歩いてくる人並みの中の人物に視線を引きつけられた。「大作家だ。ドゴール派の中でも別格だ」と、デモ見物に同行していた友人にその作品や経歴を説明し、「一個の人間の姿そのものから、これほど圧倒的な凝縮力と圧力をじかに伝播されたのは、初めての体験であった。周囲を圧する貫禄、などという安直な表現ではとても、その姿を伝えられない」と、後に述べた。

 フランス文学に熱心だった近藤紘一は自ら「別次元の存在」と捉えるマルローの姿を直に見て、このマルローを右腕として扱うドゴール大統領の勝利を確信した。パリの五月革命の1シーンである。

 

五月革命

 

 1968年、サンケイ新聞の社内留学制度でパリに留学中の近藤紘一が目撃した五月革命は、パリでの大規模なストライキと、それに起因する一連の騒動である。近藤紘一もこの騒動に巻き込まれ、参加するフランス語の講座は休講を余儀なくされた。この「革命」は、革命に対処する側であるドゴール大統領が解散総選挙に打って出て、大勝利を収め、鎮静化に向かった。

 ドゴールがどれほどの大人物であったか、ということは間接的に私も知っている。パリの空港の短縮コードは「CDG」、シャルル・ド・ゴール国際空港と呼ばれているからだ。

 

アンドレ・マルロー

 

 マルローは、前述のように大作家でもあったが、インドシナでは、カンボジアの首都プノンペンで美術品を盗難して逮捕されたほか、スペイン内戦に義勇兵として参加するなど、破天荒な道を歩んでいる。

 特にスペイン内戦では空軍パイロットとして負傷するなど、第一線で戦い、これらの経験をヘミングウェイ等とともに文学作品として残した。

 マルローが飛ぶ空の下では、その本格的なキャリアを始めようとしていた戦争写真家ロバート・キャパが、戦場を求めて闊歩していたかもしれない。

 

文化大臣 マルロー

 

 近藤紘一が「鋼のようなまなざしを真っすぐ凱旋門に据え、無言で一歩一歩、大デモの先頭を切って行った、あの人物の、不動の意志が革命の局面を転換させたーという気が、今もする。」と語るマルローの当時の役職は、文化大臣であった。

 1960年代、エジプトのナセル大統領は、洪水被害への対策と電力需給の高まりに対処するため、アスワン・ハイ・ダムの建設計画を進めていたが、この計画により、アブ・シンベル神殿ダム湖の底に沈もうとしていた。

 文化財保全の救済キャンペーンが行われる中、ユネスコ会議が開催され、文化大臣マルローは演説でこのように述べた。

 

「世界文明の第1ページを刻む芸術は、分割できない我々の遺産である」と。

 

 1979年、ガラパゴス諸島をはじめ12件の文化財が、「世界遺産」として登録された。現在、その数は1000件を超えている。

 

 

 

アンドレ・マルロー―小説的生涯 (1983年)

アンドレ・マルロー―小説的生涯 (1983年)