近藤紘一 × 日本競馬史 1
スポーツ・ノンフィクション
私は近藤紘一や沢木耕太郎をはじめとして「ノンフィクション」作品を多く読むが、初めて自ら買い求め、読み進めていった作品群も、分野として純然たる「スポーツ・ノンフィクション」に属していることに気がついた。
それは、「スポーツ」としての競馬である。私はギャンブルとしての競馬ではなく、ただ懸命に走るサラブレッドや、これに真剣に関わる人々の姿に、純粋なスポーツとしての形を見た。そこには、無数の物語があるのだ。
近藤家×日本競馬史
私は個人的な興味から、近藤家の出来事と日本競馬史をリンクさせてみようと思いついた。あるいは、その時代をより明瞭にイメージできるのではないか、と思ったからだ。
日本の近代競馬は、軍馬としての馬の競争能力向上を目指す「能力検定競走」から始まった。やがて日本中央競馬会(JRA)の前身である日本競馬会が発足したのは、1936年のことである。この頃、近藤紘一の祖父である近藤次繁は、駿河台病院の院長を務めていた。
消えたダービー馬
競走馬は、2歳になったときに競走生活に入り、3歳時に日本ダービーなどのクラシック競争に出走する。近藤紘一が誕生した1940年頃に生まれた競走馬たちは、まさにその現役生活を戦争とともに歩むことになった。
1944年、近藤次繁の亡くなったこの年、第13回の日本ダービーが「観客のいない競馬場」で行われていた。
この寂しい大レースを制したのは「カイソウ(快走の意か)」だった。この日本でもっとも栄光あるレースの優勝馬として、輝かしい実績を手に入れたはずのカイソウは、戦火の中でどこかに消えてしまった。
「消えたダービー馬 カイソウ」
ダービー馬の行方が知れなくなり、このようなキャッチフレーズを生み出す戦争を、私は恐ろしいと感じた。
先駆者
ベトナムでは、1954年、ディエンビエンフーの戦いによって第一次インドシナ戦争が終結に向かった。
それから2年後の1956年、近藤紘一が湘南高校に入学した年に日本ダービーを制したのが、「ハクチカラ」だった。ハクリカラは後に天皇賞、有馬記念を制し、名実ともに日本最強馬として君臨した。
1958年、ハクチカラは戦後初の海外遠征馬としてアメリカに渡ることになる。直近10戦で8勝2着2回(連帯率100%)の成績を誇るハクチカラは、遠路はるばる辿りついたアメリカで苦戦を強いられた。
9着、9着、4着、6着、6着、2着、3着、2着、5着、4着・・・
初勝利
11戦目にしてようやくハクチカラが掴み取った白星は、日本産馬としても記念すべき海外初勝利となった。日本の馬が海外の重賞勝利をするまでには、ここからさらに36年ー、1995年の香港国際カップを制したフジヤマケンザンを待たねばならなかった。
1963年、近藤紘一がサンケイ新聞に入社したこの年には、日本競馬史に名を残すシンザンがデビューした。近藤紘一も静岡支局において、戦後初の三冠馬となったシンザンの快挙を目にしたかもしれない。シンザンは後に、日本の競走馬として最長寿記録である36歳を記録して、1996年にこの世を去った。
それぞれの・・・
1972年6月、ベトナムではキャセイ航空機が軍用機と衝突し、日本人を含む乗客が死傷するという痛ましい事故が起きていた。交戦地域のまっただ中で起きた事故対応への難しさを近藤紘一がリポートしたちょうどその頃、日本の競馬関係者は目前に迫る日本ダービーに向け、必死の調整をしていた。
その競馬関係者に交じって、東京競馬場の厩舎(当時の厩舎は競馬場に隣接していた)に泊り込んでいる若者がいた。その若者は、4流血統ながらダービー制覇を目指す競走馬イシノヒカルの取材をしていたのだ。若者の名は沢木耕太郎、この当時の記録は「イシノヒカル、お前は走った!」として発表されている。
凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち 誰も書かなかった名勝負の舞台裏
- 作者: 平松さとし
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/中経出版
- 発売日: 2014/09/12
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログ (1件) を見る
(「イシノヒカル、お前は走った」収録)
あの日 あのとき サイゴンで
世界新記録の瞬間
昨日の昼にふとテレビをつけると、1977年9月3日に、放物線を描いてライトスタンドに飛び込んだボールの映像が流れていた。世界最多本塁打の記録を更新した、王貞治の通算第756号ホームランの瞬間である。
そのテレビ番組のテロップがずいぶんと昭和風であることに気づいて番組表を確認すると、それはNHKの「あの日 あのとき あの番組」という番組で、NHKが保有するものからあの日、あのときの映像を流しているのだ。私が見た映像は「特集 王貞治~初公開・新記録達成までの日記」という、1977年9月4日に放映された映像そのものだったのだ。
近藤紘一の「サイゴンから来た妻と娘」は、NHKの「ドラマ人間模様」という番組で、1979年に4週に渡ってドラマ化され、放送されたことがあるらしい。
NHKのHPによると、「・・・1976(昭和51)年にはじまった『ドラマ人間模様』は、優れた脚本家や演出家が「社会や人生の断面を切り取り、人間の生き方を深い視点でとらえよう」と感動的な数々のシリーズドラマを生み出した(~1988年3月)・・・
幸福に見える現代の家族の実像は多様である。橋田壽賀子の『夫婦』、宮本研脚本の『サイゴンから来た妻と娘』、山口瞳の自伝小説『血族』、向田邦子の自分史による昭和の家族の肖像を目指す『あ・うん』『続 あ・うん』の連作シリーズなどは家族や夫婦の赤裸々な内面や葛藤を真正面から掘りさげ、豊かなドラマ世界を展開した。視聴者もまた自己の家庭や家族の歴史に思いを馳せるのか、共感をよび反響は大きかった。」と記載されていた。この番組を見ることはできないのだろうか・・・残念ながら、いまのところ放映予定は示されていなかった。
サイゴン陥落の記録
ドラマについて調べていると、NHKアーカイブスというHPに辿りついた。そこでは、NHKの保有する映像が約15000点閲覧できるという。私はそのHPに用意された検索窓に、「サイゴン」と打ち込んだ。ヒットした映像名には「サイゴン陥落の記録」とあった。近藤紘一があの日、あのときに見た景色と、同じ空気を記録した映像が記録されているのか・・・と、表示されたリンクをクリックした。
サイゴンからメコンデルタ方向に上がる煙、ヘリコプター、悠々と入城する北ベトナム軍、倒される南ベトナム兵士像、解放に困惑し、あるいは歓喜する人々・・・それは間違いなく、サイゴン陥落の一場面だったのだろう。
その映像が貴重なものであるように、そこに映されなかったことを持ち帰った近藤紘一の記憶や感情もまた、貴重なものなのだ、と思う。ジャーナリズムの使命が事実を伝えることにあるなら、小説の、つまりフィクションの一つの役割は、生の事実では伝えることのできない、或いは伝わりすぎる事実を、抽象化し昇華して人々に示すことではないか。開高健は、近藤紘一にそれこそが君の使命だと伝えたものの中にはノンフィクションに収めきれない「何か」も含まれていたのではないか。時の経過による熟成が、きっとそうした作品が生み出していたに違いない、と思う。