Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

次郎の話

 

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次郎の話

 「次郎の話」というのも唐突だが、近藤紘一の弟は、次郎(つぎお)という。近藤紘一自身によって語られた弟とのエピソードは、戦時戦後の食糧難時に食べ物を奪い合った、という少々シビアな話だが、この記事は次郎(じろう)の話、として続く。先日、古本屋で見かけた白洲次郎の「プリンシプルのない日本」という本を購入したが、このとき私は「次郎違い」をしていた。

 白洲次郎は、吉田茂に請われて終戦連絡事務局参与として憲法成立や、通商産業省の設立に関わり、東北電力会長などを務めた。妻は、数多くの著作を残した随筆家のが白洲正子である。

 しかし私は、「国家の品格」や「若き数学者のアメリカ」などの著者である藤原正彦氏の父で、「アラスカ物語」などの著作がある「新田次郎」と混同していた。少し調べてみれば、藤原正彦の母である「藤原てい」も、「流れる星は生きている」という、戦後の満州からの帰還を記したノンフィクションを発表し、戦後のベストセラーを出している。このような勘違いによっても読書の幅は広がるのだな、と思った次第だ。

 

白洲次郎小林秀雄

 白洲次郎のプロフィールを見て最初に気付いたことは、生年が小林秀雄と同じだな、ということだった。そして実際に彼らには親交があった。小林秀雄の「Xへの手紙」のXとは、小林秀雄と同じく近代批評を確立した河上徹太郎だと言われているが、この河上は白州の家に間借りしていたこともあるようだ。小林秀雄が言っていた知り合いに英語の達者な男がいて・・・というのはおそらく白洲次郎の事だったのだろうと気付いた。

 さて、「プリンシプルのない日本」は、まとまった著作を残さなかった白洲次郎の文章を、(あえてこういう言い方をすれば)寄せ集めたものである。この本の中では白洲次郎がエジプトを訪れた際に、小林秀雄がカイロで待っていた、などと言うエピソードも紹介されている。

    このとき、エジプト大使を務めていたのは近藤紘一の義父、萩原徹(後の駐仏大使)の外務省同期、与謝野秀であった。どうも日本人が外国に行くと駐在大使が出てくる、という時代があったようだ。もっともそれは、彼らが要人であったからかもしれないのだが。

 

「プリンシプルのない日本」

 プリンシプルとは主義、などと訳される。プリンシパルとすれば校長だし、プリマドンナとすればバレエの主役である。プリンスとすれば王子であるから、princ・・・には主要な、といった意味があるらしい。私はどうもこうした横文字はこのように理解をしていかないと腑に落ちない。

 さて、この本を読んで私が思ったことは、近藤紘一の文章に通ずるものがあるな、ということだ。もちろん近藤さんの文章のほうが上手いのだが、共通点は、国を?憂う気持ちであったり、硬質でありながら少し砕けたような語り口と、「自分自身を偉いと思っていない」ところから滲み出る良識といったところだろうか。

 収録された文章は概ね1950~1970年頃のもので、ちょうど近藤紘一の活動期の前に当たる。戦後、所得倍増計画で経済成長を遂げる前の、良識ある日本人がどのように世相を捉えていたか、私には大変興味深いものである。(続)

 

プリンシプルのない日本 (新潮文庫)

プリンシプルのない日本 (新潮文庫)

 

 

アラスカ物語 (新潮文庫)

アラスカ物語 (新潮文庫)

 

 

流れる星は生きている (中公文庫)

流れる星は生きている (中公文庫)

 

 

 

祖国とは国語 (新潮文庫)

祖国とは国語 (新潮文庫)

 

 

伝説の編集者 新井信

伝説の編集者 新井信

 1979(昭和54年)、第10回を迎えた大宅壮一ノンフィクション賞をダブル受賞した人物がいる。文芸春秋社においてノンフィクション部門の編集者として従事した新井信(あらいまこと)だ。

(↑上記外部リンクにて、新井さんが大宅壮一ノンフィクション賞に言及している。)

 

 新井さんが担当編集者として刊行した、近藤紘一の「サイゴンから来た妻と娘」と沢木耕太郎の「テロルの決算」が、第10回となる同賞を受賞したのだ。編集者冥利に尽きる、吉日であったと言えるだろう。

 

二つの受賞作

 「サイゴンから来た妻と娘」は、サイゴン陥落を見届けた近藤さんと、べトナムから来たの妻と娘の日常を描いた物語である。我が国と外国の異文化交流を、家族の絆を通して描いた傑作と言える。

 また、沢木さんの「テロルの決算」は、右翼少年であった山口乙矢(やまぐちおとや)が、社会党浅沼稲次郎を刺殺するという、日本の歴史的なテロ事件を、ニュージャーナリズムの手法で描いたノンフィクションの傑作である。

 これらの優れた作品の担当編集者をしていた新井さんが、「伝説の編集者」とも呼ばれていることに何ら異論はあるまい。1940年生まれの近藤さん、1947年生まれの沢木さんにとって1937年生まれの新井さんは、信頼すべき年長者であったろう。両名とも、その著作の中で新井さんへの好意を表している。

 

近藤紘一 その死と再生

 2013年、「サイゴンから来た妻と娘」の新装版に、新井さんが、「l近藤紘一 その死と再生」と題するあとがきを書いた。最近、このあとがきを再読した私は、自身と近藤紘一作品との出会いを思い出した。

 私は本を買う前によく、あとがきに目を通す。今般、新井さんの「あとがき」を読んで、私の近藤紘一観というべきものが、いかにこのあとがきに影響されているか、に気付いた。はじめに近藤さんの作品を読む前に、私はあとがきに目を通していたのだ――このあとがきは、もちろん短文だが、近藤さんの死後に発表された彼に関する文章の中で、最上のものの一つと言っていい。私の書くいくつもの記事より、どれほどの価値のあるものか、とも思う。 

 編集者としていくつもの作品を手掛けた新井さんの文章は、有象無象のノンフィクションライターの力量を軽く凌駕している。

 

近藤紘一を読む。

 そして私は、近藤さんの作品等に関しこのような文章群を書く価値があるか、と自問することになるのだが、同日に読んだ小林秀雄の文章に、以下のような一節があった。

文は人なり」といふ言葉は、大した言葉で、何の彼の言い乍ら、文学の研究法も鑑賞方法も、この隻句を出ないと見えるものであるが、この簡明な原理の万能を信ずる為には、作者との直の付き合いなどない方が好都合である。古典の大きな魅力の一つは作者が死に切り、従って作品を一番大切な土台として、作者の姿を思い描かざるを得ない魅力である。

(一部現代語訳)

 という一節を見た。この言葉を信ずるならば、近藤さんを直接にも間接にも知り得ない私が、近藤さんの文章を読んでいく価値がありはしないか、とも思う。

 

あとがき

 一方で私は、新井さんのあとがきを読み、生前の近藤紘一に想いを馳せる。そこには、編集者と作家という枠組みを超えた、一つの強く確かな人間関係がある。そのように感じられるからである。

 

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