Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

パリ協定の意味するもの-Paris Peace Accords-

パリ協定

 世界史の授業で私を悩ませたものの一つに、「カール=シャルル問題」があった。これは私の造語だが、16世紀に神聖ローマ皇帝だったカール5世は、国によってシャルル2世と呼ばれ、カルロス1世と呼ばれた。これらが全て同一の人物を指すのだ、ということに気づいた時には、期末テストは終わっていた。

 ところで、「パリ協定」と言う用語がある。これは、ベトナム戦争の構造を理解するために必須の用語だが、最近テレビでパリ協定というワードを耳にした方も多いと思う。2015年、地球温暖化等の対策に取り組む「気候変動枠組条約締約国会議」がパリで開かれ、全196ヶ国が参加する「パリ協定」が採択された。このパリ協定とは、国際的な気候変動を論じる際のキーワードなのだ。

 また、かつて1954年に西ドイツが主権を回復した際に結ばれた条約も「パリ協定」だった。少なくともwikipediaでは、1973年のパリ協定には「Paris Peace Accords」、2015年の協定には「Paris Agreement」の英訳が付けられている。これらもまた、訳語を巡る問題なのかもしれない。

 

泥沼の戦争

 ベトナムの戦史は長い。1945年8月15日に日本が敗戦した翌月2日、ホー・チ・ミンベトナム民主共和国の誕生を宣言した。インドシナに復帰したフランス軍との間に、第一次インドシナ戦争が勃発する。ディエンビエンフーの戦いを経てジュネーブ協定が締結される1954年まで抗仏戦争が続くことになる。

 ジュネーブ協定では、北緯十七度線に軍事境界線が設けられ、ベトナムは不承不承ながら南北に分断された。フランスが南部から撤退すると、アメリカがすぐに介入して南部にゴ・ジン・ジェムを首班に親米反共政権が発足する。1965年には、アメリカ軍がベトナムに上陸、戦闘に直接介入し始めたが、やがて長引く戦争に嫌気のさしたアメリカは、停戦協定を働きかける・・・ 

 

 

1973年1月27日、パリ協定

 「ベトナムにおける戦争終結と平和回復に関する協定」、通称「パリ協定」の内容を簡潔に説明すると、次のようになる。 

 米国、南北両ベトナム南ベトナム臨時革命政府の四者により調印された。現状停戦を命じ、ベトナム内部問題の政治解決、報復の禁止、戦後復興への援助などを定めた・・・(「統一ベトナムインドシナ」より)

 四者会談の構図は、次の①及び②のグループと、③及び④のグループに分けられる。

北ベトナム共産主義

南ベトナム臨時革命政府(共産主義:実態は北ベトナム

アメリ

南ベトナム反共主義:親米政権)

 しかし、①北ベトナムのレ・ドクト政治局員と③アメリカのキッシンジャー大統領特別補佐官との間の秘密会談で成立したこの停戦協定は、④南ベトナムにとって恐ろしく不利な内容であった。

 サンケイ新聞サイゴン支局長の任にあった近藤紘一は、この「パリ協定」の発効について、当時の新聞記事に次のように書いた。

ベトナム戦争は、二十八日午前八時(日本時間同九時)終結する。南北ベトナム三千四百万人の悲劇と後輩と憎悪の歴史は、いま閉じられる。(目撃者)

 このとき、「公式には」ベトナム戦争終結したが、現状はどうであったか。近藤さんは、後にこう書いている。

 米軍は、自分がかきたてた戦火も鎮めず、しかも大量の北ベトナム軍の南駐留を放置したままこの「協定」によって、南ベトナムから雲をかすみと逃げた。少なくとも多くの南ベトナム人がそう思い、この”裏切り”に激怒した。(サイゴンのいちばん長い日)

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ベトナム「欠陥」報道

 上記の和平協定が結ばれた後、北の共産軍が南ベトナムに侵攻し、首都サイゴンが陥落したのは、それから約2年3カ月後の1975年4月30日のことだった。

 近藤さんと古森義久氏の共著である「国際報道の現場から」で書かれているベトナム報道の問題は、日本の報道と現地の実態での明らかな乖離にあったという。現地に向かう記者は、当然日本で下調べをする。調べるとどのような結論が得られるかといえば、「南ベトナムの民衆は九〇パーセントぐらいは解放戦線、北ベトナムを支持している」ということだ。

 「それまで得ていた知識と、現地で膚で感じるものが違う」と二人は感じながら、「その格差を埋める戦い」を続けた。日本で、ベトナムに平和を!と叫んでいた団体は、米軍の撤退を受けて1974年に解散したが、「鉄の塊が南へ、南へと降りていった」のは、それから後の事だったのである。もちろんその進軍は、南北両ベトナムに共通して行われ続けていた「パリ協定」違反行為であった。

 

隔世の感

 結局パリ協定は、「戦争の終結を約束するものでもなく、単に米国がかろうじて面子を保ちながらベトナム戦争から足を洗うため体裁を整えたものに過ぎない」ものだった。そうしてベトナムから撤退していったアメリカが、ハノイ北朝鮮との会談をしたことに、何らかの感慨を持った方達がいるだろう、と私は思っている。

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<戦車の踏み込んだ大統領官邸>

 

 

 

私の台湾日記④【完結】

 時の流れ

 先日乗った飛行機から窓外の空を眺めていると、対向する飛行機が後方に過ぎ去っていった。あのように一瞬で過ぎ去っていく機体を、かつて私は見たことがなかった。これが相対速度か、と実感した。

 「時間が早く過ぎ去る」と思うそのとき、私は果たして前に進んでいるか。時が進行方向を同じくして確かに共に歩んでいるなら、相対的に進みは遅く感じられるに違いない。

 もし私が立ち止まっているなら、その瞬間、時は相対的に加速するのではないか・・・。1月5日にこう書きだしてから、すでにいくらかの時間が流れ去ったようだ。

  

歴史家の矜持

  さて、年末年始の休暇では、「ローマ人の物語」で著名な塩野七生の「ローマから日本が見える」と、吉村昭の「海の祭礼」「海の史劇」を読むことができた。初めて塩野氏の著作を読んだが、同氏の記述からは歴史作家たらんとする矜持が見られ、大変興味深かった。史実を良く調べることは、作品を書くに当たって当然のことで、調べた事実をいかに生かすかが本質であるという。同旨のことは吉村氏も言っており、私は大いに反省するところがある。

 

「事実」は語る

  このうち「海の史劇」は日露戦争を描いたもので、その文章を二つ、以下に引用する。

「・・・彼ら(ロシア兵)にとってアフリカの暑熱は余りにも苛酷すぎた。甲板上の温度は摂氏三五度を越え、鋼鉄は手を触れると火傷をするほど熱し、館内の温度は実に摂氏四十五度以上にも達していた。」

 この記述だけで、日露戦争時のロシア艦隊は、凍結する北極海ではなく、喜望峰をまわる遠大な道のりを経て日本海軍との決戦に挑んだことが分かり、その道程の困難さを感じることができる。

(西アフリカのダカール(フランス領)で石炭を補給させたフランスに対し日本が)「・・・石炭積込ミノ実施ヲ許可シタ行為ハ中立国違反デアルトシテ、日本政府ハフランス政府ニ対シテ厳重ナ抗議ヲ発シタ。」

 また、この記述では、(同盟国であるイギリスの協力によるものとも推測されるが)遠く西アフリカのダカールで行った石炭積込について、日本政府が把握、対応していたことが分かる。

 このように、「事実」が語るところは大きく、そうした点に留意してこのブログでも近藤紘一氏について書いて行ければよいと思っている。この前文をもって、読者の皆様への年始の?御挨拶に代えさせて頂きたい、と思う。

 

完結「私の台湾日記」

  ところで意外なことだが、日露戦争サイゴンとの間に関係がないではない。東洋に進出してきたロシア艦隊は、仏領インドシナカムラン湾でも石炭を補給したが、その石炭補給に係る実動部隊は、サイゴン港で手配されたのである。前段が長くなったが、昨年から続く「私の台湾日記」は以下に完結を迎えることになる。

majesticsaigon.hatenablog.jp

  礁渓温泉を出発した私は、電車で台北に向かった。私の乗った急行電車「莒光号(きょこうごう)」は旧式の列車らしく、扉はレトロな手動式である。相変わらずの曇天だったが、車窓から時折目に映る海岸線は美しかった。

 

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万華地区

  台北市内に戻った私は、この台湾行の一つのキッカケともなった鈴木明氏の「続・誰も書かなかった台湾ー天皇が見た”旧帝国”はいまー」によると”上級者向け”の地区とされる「万華地区」に行ってみることにした。

 地下鉄を降り、地上に上がると公園があり、多くの老人で賑わっていた。私は石の椅子に腰かけて談笑する彼らが将棋でも打っているのかと近づいてみたのだが、どうやらここに集まる人々は、”炊き出し”に集う類の人であるらしかった。

 近くには「西昌街観光夜市」があり、昼であっても、雑多としかいいようがない商品が並べられている。得体のしれないコードや配線を、誰が買うのだろう。私はその良い加減な商売ぶりを、面白いと思った。暗がりには、白昼から夜の店の客引きが屯する。

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二手書店

  私は歩いた。「歴史地区」を歩き、「地球の歩き方」によると「いまだに異様な雰囲気に満ちており、治安はあまりよくない」とされる通りを歩き、そのうちに、英語のセカンドハンズの訳なのだろうか、台湾では「二手書店」と呼ばれる古書店を探すことを思いついた。

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 台湾から引き揚げた日本人が叩き売って行った本が残ってはいないだろうか・・・そんな期待は儚くも裏切られたが、立ち寄った古書店で日本の本が売られている書棚を目にした。そこには、近藤さんの「目撃者」の文庫版が売られていて、やはり東南アジアに旅立つ者にとって、近藤さんの著作は一つの指針になるものなのだ、と一人合点した。異国で近藤さんの本を見かけて、なんだか私は嬉しかった。

 

南島の希書を求めてー沖縄古書店めぐりー

  そんな本屋で私が購入した本は、このようなタイトルの本であった。1984年に発行されたこの本は、沖縄に登場する古書店と、古書を愛する3人の記念品的な本なのだが、私が面白いと思ったのは、この古書に著者の書き込みがあったことだった。沖縄の有人島を全て訪れ、「沖縄都ホテル」の社長を務めた著者の一人、桑原守也氏がおそらく台湾の知人である「蔡 建塗」氏に贈った本が、何らかの理由によって手放されたものらしく、日本に持ち帰ることに些かのためらいも感じたが、古書店で、古書を愛する彼らの書いた、何やらストーリーのある古書に出会ったことが大変興味深く、いずれ人手に渡るならば、と約300円で購入することにした。

 

台北の夜

  この日の台北は、台湾全土で行われている選挙のためにいつもとちょっと違った雰囲気を纏っていたのかもしれない。20歳ぐらいの若者達も、街頭で流れる選挙速報に足を止めている。日本とは政治への関心度が違う、と月並みに思ったが、再び別の古書店を訪れた私は、古書店の店主が台湾南部高雄の選挙結果に歓喜する姿を見た。私は何度も自分は日本人で中国語はしゃべれないと伝えたのだが、彼は構わず政権与党の牙城を崩した選挙結果についての喜びを私に語った・・・。

 

みんな、ここにいたのか。

 

 台北駅前の夜は更け、人通りもまばらに飲食店は次々に閉店していった。私は夕食を食いそびれそうだった。人気のない路地を食事を求めて、闇雲に歩くと、人の賑わう気配を感じた。

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 寂しい通りを長く歩いた私は、みんなここにいたのか、と思った。夜の11時になろうとも言うのに、観光客だろうか、ずいぶんたくさんの人が集まっていた。

 雑踏の中を歩くが、日本に帰らなければならないという思いが募ってくる。帰国までの自由時間は、睡眠時間を含め7時間を切っていた。

 旅が人生に似ているなら、上手くいかない旅もあるだろう。コンビニによってホテルに戻り、目覚ましを抱いて眠った。

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 数時間後、月明かりの不思議な早朝を、空港へ向かう。素敵な月だと思った。

 

<完>