1927年、フットボーラー近藤 ー極東選手権競技大会ー
Far East
かつて、極東選手権競技大会(The Far Eastern Championship Games)という競技会が開催されていた。
1913年から34年まで、10回実施されたこの大会は、フィリピン、中国、日本の3か国を順次開催地として開かれたが、「満州国」参加に関して日中が激しく対立、規模縮小、戦争により中止となった、という。(ー日本大百科全書(ニッポニカ)より抜粋)
サッカー選手、近藤台五郎
1927年、第8回大会に旧制水戸高校(現茨城大学)から出場した一人の若者がいる。この21歳のサッカー選手の名は、近藤台五郎という。
ジャーナリスト近藤紘一の父である。近藤紘一もフットボールをやっていた、と同級生であり、NHKアナウンサーであった吉川精一が語っていたように思うが、あるいはサッカーを通じ、近藤親子は幼少期に交流の機会をもっていたのかもしれない。
日本代表
ところで、この極東選手権大会の出場選手は、当時の「サッカー日本代表」であった。現在も、サッカー日本代表のホームページに記録が残されている。
この大会を経て、旧制水戸高校を卒業し、父次繁の意向に沿って東京・神奈川へ戻り東京帝国大学へ進んだ台五郎は、医学の道を進み、サッカー界から距離を置いたものと思われるが、近藤紘一の父、近藤台五郎は、元サッカー日本代表という肩書を持つ医者だったのである。
代表TIMELINE | SAMURAI BLUE サッカー日本代表| 日本サッカー協会
近藤紘一に峻烈な壁として立ちはだかったという、名医の頑強さは、あるいはこうした経歴によって形作られたものであったのかもしれない。上海で行われた大会の13年後、戦時中の1940年、34歳となった台五郎の長男として、紘一は誕生することになる。
タイの国王
タイのプミポン国王が亡くなったという。
在位70年、1946年から長きに渡り、国の要となってきた。
近藤紘一がバンコクにいた頃も、そうであった。
近藤紘一の著作に登場する各国のお偉いさん方も、
近年訃報が相次いでいるように思われる。
ヴォーグエンザップ、
グエンカオキ、
時代の流れであるから仕方のないことだが、
世界最長の在位期間を誇ったタイの国王の逝去により、
国に政情不安が広まらなければよいのだが、と思う。
これからが正念場になるのではないか。
本日は、哀悼の意を示したい。