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Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏について

サイゴンから来た妻と娘の結末 -彼の名は-

近藤紘一の足跡

 1975年4月30日、サイゴン陥落ー。

 長く続いたベトナム戦争終結を見届けた新聞記者、近藤紘一は、陥落直前の状況を以下のようにレポートした。「サイゴンはいま、音を立てて崩壊しつつある。つい二カ月前、いや一カ月前まではっきりと存在し、機能していた一つの国が、いま地図から姿を消そうとしている。信じられないことだ・・・」

 

 近藤は、南ベトナムが消えゆく過程と「その後」を、大宅壮一の編集した「日本のいちばん長い日」になぞらえて、「サイゴンのいちばん長い日」として刊行した。近藤は歴史的な事実の目撃者として、その激動の日々に身を置いた。

 

 そして、この事実とは別に、近藤紘一にはもう一つの物語が生まれた。この物語こそが「サイゴンから来た妻と娘」である。近藤にとって2冊目の作品となったこの本は、1975年4月9日、戦況の悪化するサイゴンから南ベトナム国籍の妻を日本に送り返すところから始まる。玄関口であるタンソンニュット空港が陥落すれば、ベトナム国籍の彼女の出国は困難になるだろう、との予測からであった。

 

 実はこれ以前に、近藤紘一は妻であるナウさんと、その連れ子であるユンちゃんとともに日本に一度帰国している。戦況の悪化を受けて現地サイゴンに飛んだため、4月上旬の時点では、ユンちゃんは日本の知人に預けられていたのだろう。

 近藤は、「サイゴンから帰ってきた夫、そして父」として、日本に帰り、それからの近藤一家の日々が、前述の「サイゴンから来た妻と娘」に収められているのだ。

 

 当時は今よりずっと国際結婚の珍しかった時代である。沢木耕太郎深夜特急で描いた旅も1970年代前半だが、外国に向かう人にカンパをするというのも一般的なことだったのではないかと思われるし、インターネットのない時代に異国に触れるカルチャーショックというのは、2017年の比ではない。

 

 しかし描かれるのは、ベトナム式子育て法に始まり、食生活、異国で思春期を迎えた娘、日々の暮らし・・・暖かく、ユーモアに溢れた家族の記録である。その暖かさには普遍的なものがある。子どもを持った人が読んだなら、幼い子供と過ごした日々を懐かしく思い出されるかもしれない。

 

  さて、この記事のタイトルには「結末」という文字を使用した。その理由は、とある週刊誌記者の悪意ある(と、私には思える)記事のため、近藤家族に訪れる「衝撃結末」などという情報が検索エンジンで上位にヒットするからだ。そのような悲劇は実際なかったように思われるし、少なくとも両論併記に当たるものとしてこの記事の存在価値があると思っている。

 であるからもし、これから「サイゴンから来たと妻と娘」を手に取ろうとする方がこの記事をお読みになっていたならば、この記事の続きを読まずに近藤紘一氏の原文を読んで頂きたい。シリーズを読破されましたら、再び当ブログを訪れていただければ幸いです。

 

サイゴンから来た妻と娘 (文春文庫 こ 8-1)

サイゴンから来た妻と娘 (文春文庫 こ 8-1)

 

 

 

 

 

 

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 ・・・そしてこの作品は後の、「バンコクの妻と娘」、「パリへ行った妻と娘」へと続いていく。近藤紘一はインドシナ地域の優れたウォッチャーとして取材活動を続けて行くとともに、ある信念を持って娘を育てた。それは決して、娘を「祖国を亡くした根なし草」にさせないということである。かつてフランスの植民地であったベトナムの学校において、ごく初歩的なフランス語を習っていた娘をフランス語学校へ進めると、ときには厳しく娘にフランス語を叩きこんだ。

 

 やがてユンちゃんは立派に成長し、フランスの大学進学試験に相当するバカロレアに合格するまでになり、「パリへ行った娘」となる。まだ成人しない娘のために、ナウさんもパリにサポートに向かった。

 この頃、ナウさんはパリでアパートを買い、娘とともに暮すことになる。このアパートをナウさんの若いころの彼氏であるという「ボロー氏」が訪れていることが、「パリへ行った妻と娘」で近藤により描かれている。おそらくこうした出来事を指して、近藤が日本に取り残され、妻と娘がパリで知らない男と暮らしている「衝撃結末」というデマのもとになっているのではないかと思う。

 

しかしながら別の理由で・・・近藤紘一を語り手とする暖かな家族の物語は、近藤紘一の早すぎる死によって一旦幕引きをすることになる。

 

 しかし結末となる、物語のエピローグはこうだ。

 大人になったユンちゃんは、やがて作中に登場するフランス人の青年と結婚し、二人は男の子をもうける。

 

 彼の名は、ジュリアン・コウイチ。近藤紘一の孫である。コウイチの物語は、今も続いている。

 

 

 

 

1 地球の歩き方 aruco パリ 2016~2017 (地球の歩き方アルコ1)

1 地球の歩き方 aruco パリ 2016~2017 (地球の歩き方アルコ1)

 

 

 

 

夏の海、近藤家と萩原家

近藤家の人びと

 「サイゴンのいちばん長い日」の作者として知られる近藤紘一には、「サイゴンから来た妻と娘」シリーズの著作があるが、近藤紘一には若くして亡くなった前妻がいた。近藤は、湘南高校から進学した早稲田大学の仏文科において、駐仏大使萩原徹の娘、浩子さんと出会う。二人の事については、近藤の書いた文章群の中でも一際美しい、「夏の海」という短編に詳しい。

 

 さて、1960年頃に出会い、やがて結婚する二人の出会いは、仏文学がもたらしたものかもしれない。近藤家は医家である。近藤紘一の父も、祖父も、曾祖父も、みな医者であった。日本の医学界においては、ドイツ医学の影響が強い。現在でも、ドイツ語である”カルテ”にドイツ語由来の言葉が並ぶ。例えば「胃」ならば、英語であるストマックではなく、ドイツ語のガストホフが使用されているだろう。

 このように、当時最先端の西洋医学はドイツから入ってきた。祖父、近藤次繁もまた西洋に学び、日本に帰国後は、東京帝国大学のお雇い外国人スクリバに師事した。近藤紘一が医学の道を志したならば、医学部でドイツ語を習っていたかもしれない。

 しかし、仏文学に傾倒した紘一は、仏文科を目指した。このことは後に、かつてフランスの植民地支配を受けたフランス語圏、ベトナムにおける取材活動につながることになる。

 

 フランス文学というものは隆盛を誇っていたから、文学青年ならば仏文科を志すことに不思議はない。小林秀雄をはじめ、仏文科に進んだ人物は多い。しかしながら、もし、近藤紘一に影響を与えた人物が身近にいたとしたら、それは近藤紘一が信頼していた従兄弟の家系、叔父たちであったかもしれない。

 

 近藤紘一の叔父の一人に、法曹界で名を成した人物である近藤綸二がいる。彼の後輩格には、『日本人の法意識(伝統的な日本の法意識においては、権利・義務は、あるような・ないようなものとして意識されており、それが明確化され確定的なものとされることは好まれない)』などで知られ、法律界では知らぬ者のない川島武宜などがいる。この近藤綸二は、バルザックをはじめとするフランス文学に通じており、フランス文学に関わる知人も多かった。綸二の息子であり、紘一の10歳年長の従兄弟にあたる幹雄を通じてフランス文学への興味が湧いたとしても、特段の不思議はあるまい、と思う。

 

 さて、この近藤綸二を通じて、近藤家と前述の萩原家は、運命的な(とは大仰にすぎるかもしれないが)出会いをすることになる。1960年、紘一と浩子さんの出会いから数十年前のことである。

 ある夏の事、近藤綸二は逗子の別荘において、国内屈指のフランス系カトリックの名門として知られる暁星小学校に通う少年に、水泳を教えることとなった。この少年こそ、後の駐仏大使萩原徹であった。

 

 こうしたことは、もしかして当人たちの話題にも上がったのかもしれない。数十年の時を経て、近藤家と萩原家の血を引く二人は、再び「夏の海」を訪れることになる。

 

 

 

 

 

目撃者-近藤紘一全軌跡1971~1986

目撃者-近藤紘一全軌跡1971~1986

 

 (夏の海収録)

近藤紘一さんに関心のある方、お持ちになった方へ                                                -   乱雑なブログとなっていますが、よろしければぜひコメントをお願いします。近藤さんついて語れる場の一つになればよいな、と思っています。