Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

日本人の国際化について

 現代は国際化の時代とよく言われるが、私にはこのことについて大いに疑念がある。確かに交通手段やインターネットによって、物理的、電磁的に日本と世界の距離は縮まっている。例えば私も留学中の従兄弟と連絡を取ることができ、至極便利である。

 また、スポーツに目を向ければサッカーや野球のワールドカップが開催され、一部の日本人は海外で脚光を浴びている。そうしたことにも拘わらず、見た目に見えるほどに日本人の国際化というのは進んでいるのだろうか?

 

 それは日本人の精神の、国際化の問題と言ってもいいかもしれない。ベトナム戦争終結を見届け、ベトナム生まれの妻子を伴って活躍した近藤紘一(1940-1986)は、確かな国際感覚を持っていたように思う。その近藤紘一の遺した短文の一つに、「知識人の役割とジャーナリスト」がある。その中で近藤は、小林秀雄(1902-1983)を評して、「昨今の有象無象のオピニオンリーダーとはケタも次元も異なる、最高度の知識人であった」と述べた。近藤のわずか数行の文章に影響され、私は小林秀雄を読んでいる。その名前はこれまで触れた本の中でしばしば登場する名前であった。

 

 小林秀雄は近代批評を確立させた人物として知られる。その小林秀雄が評した人物の一人に、文士、正宗白鳥(1879-1962)がいる。小林や正宗が戦前に残した文章の中には、外国での滞在を描いた小文があるが、彼らの描いた問題意識や、外国の感じといったものは、そのまま現代に当てはまることが多いように思う。ましてや、より的確に本質を見抜いているのではないか?と思われる。むしろ70年も、80年も前に書かれた文章の方が、世界に対する距離の近さを持ってはいないか。

 

 もしかすると、日本が海外領土を持っていたということも影響するかもしれない。山月記で有名な中島敦(1909-1942)が書いた「環礁-ミクロネシヤ巡島紀抄-」は、パラオが日本領だった頃の記録である。南洋庁の官吏として赴任した中島は小島を巡るが、それらの島々には日本人の巡査や、校長が、どんな島にもいるのである。領土であるとは、そういうことだと思わされる。無論、原住民への接し方は前時代的なものがあるが、その感覚はその時代の常識であったのだろう。

 

 あるいは、紀行文というものが流行らなくなっただけなのだろうか。海外に滞在し、力のある文章を書くことができる作家がいなくなったのか。文学として読むことのできる、近年の優れた紀行文というものを私は沢木耕太郎の著作しか知らない。もちろん視野の狭い私が知らぬだけということはあろう。

 

 小林秀雄と数学者岡潔との対談で発せられた「世界の知力が低下している」という警鐘は日本にも当てはまり、それは今も続いているのだろうか。

 

 昨今、ヘイトスピーチなどという低俗なものがあるという。近藤紘一は「戦火と混迷のインドシナ」の中で、「四方を海に囲まれ、地続きの国境を持たない私たちは、良くも悪くも、いわば処女的な狭量さを身に付けた民族と思える。狭量さとは、自分たちのそれとは状況の異なる世界で生じていることがらを理解することがきわめて不得手、という意味である。」と述べている。それに続けて、例えば「民族感情」というものの厄介さを理解できていない、と述べる。

 

 近藤は続けて、「ほんの少し前まで一部の日本人が抱いていた”対朝鮮人感情”を思い起こせばいい。明らかに愚劣で、日本人としてなお恥続けなければならぬ感情だが、それは確かにかつて存在したのだ」と書いた。

 「かつて存在した」という愚劣な感情が、いま日本において盛り上がっているとすれば、これは日本人の国際感覚が退化しているということではないのか・・・あるいは世界の情勢を見れば、これは世界の知識の低下なのだろうか。

 

 国際感覚だけではない、開高健(1930-1989)は「政治家の汚職だろうと、個人の私行だろうとモンダイなるものが発生すると、たちまち集団ヒステリーを起こしてシロかクロかの議論だけしかできなくなるニッポン人の全体主義風の心性にはがまんがならないが、これはどうやら根がどこまではいっているのかまさぐりようがないくらいしぶとく、そして卑小である。その心性が明も生みだし、暗も生みだすのだが、今後もずっと肥大し続けることであろう」と述べたが、まさに予言的中と言えるであろう。

 

 現代人が、明治以来の先人を越える国際感覚を持ち得ているとは、私にはどうも思われない。これは私の穿った見方であるのだろうか・・・

 

 

 

 

開高 健 電子全集18 50代エッセイ大全

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夏の海、近藤家と萩原家

夏の海

 

 「サイゴンのいちばん長い日」の作者として知られる近藤紘一には、「サイゴンから来た妻と娘」シリーズの著作があるが、近藤さんには若くして亡くなった前妻がいた。近藤さんは、湘南高校から進学した早稲田大学の仏文科において、駐仏大使萩原徹の娘、浩子さんと出会う。二人の事については、近藤の書いた文章群の中でも一際美しい、「夏の海」という短編に詳しい。

 

医家である近藤一族

 

 さて、1960年頃に出会い、やがて結婚する二人の出会いは、仏文学がもたらしたものかもしれない。しかし、近藤家は医家である。近藤紘一の父も、祖父も、曾祖父も、みな医者であった。

 日本の医学界においては、ドイツ医学の影響が強いとされている。現在でも、ドイツ語である”カルテ”にドイツ語由来の言葉が並ぶ。例えば「胃」ならば、英語であるストマックではなく、ドイツ語のガストホフが使用されているだろう。近藤さんの父、台五郎も、胃カメラの原型である「ガストロカメラ」からファイバースコープへの進化に重要な役割を果たしたと思われる。

 

医学用語としてのドイツ語

 

 当時。最先端の西洋医学はドイツから入ってきた。近藤さんの祖父、近藤次繁もまた西洋に学び、日本に帰国後は、東京帝国大学のお雇い外国人スクリバに師事した。近藤さんが医学の道を志したならば、医学部でドイツ語を習っていたかもしれない。

 しかし、仏文学に傾倒した紘一は、仏文科を目指した。このことは後に、かつてフランスの植民地支配を受けたフランス語圏、ベトナムにおける取材活動で大いに役立つことになる。

 

フランス文学

 

 フランス文学というものは隆盛を誇っていたから、文学青年ならば仏文科を志すことに不思議はない。スタンダールバルザック、ヴィクトルユーゴーランボー、ジイド、アンドレ・マルロー・・・文豪は枚挙に暇がなく、小林秀雄をはじめ、仏文科に進んだ人物は多い。

 しかしながら、もし、近藤さんに影響を与えた人物が身近にいたとしたら、それは信頼していた従兄弟の家系や、叔父たちであったかもしれない。

 

近藤家のつながり

 

 近藤さんの叔父の一人に、法曹界で名を成した人物である近藤綸二がいる。彼の後輩格には、『日本人の法意識(伝統的な日本の法意識においては、権利・義務は、あるような・ないようなものとして意識されており、それが明確化され確定的なものとされることは好まれない)』などで知られ、法律界では知らぬ者のない川島武宜などがいる。  

 この近藤綸二は、バルザックをはじめとするフランス文学に通じており、フランス文学に関わる知人も多かった。綸二の息子であり、近藤さんの10歳年長の従兄弟にあたる幹雄を通じてフランス文学への興味が湧いたとしても、特段の不思議はあるまい、と思う。

 

近藤家と萩原家

 

 さて、この近藤綸二を通じて、近藤家と前述の萩原家は、運命的な(とは大仰にすぎるかもしれないが)出会いをすることになる。1960年、近藤さんと浩子さんの出会いから数十年前のことである。

 ある夏の事、近藤綸二は逗子の別荘において、国内屈指のフランス系カトリックの名門として知られる暁星小学校に通う少年に、水泳を教えることとなった。この少年こそ、後の駐仏大使萩原徹であった。

 

 こうしたことは、もしかして近藤さんや浩子さん、当人たちの話題にも上がったのかもしれない。近藤さんの叔父が、浩子さんの父に水泳を教えていた・・・そんな偶然から数十年の時を経て、近藤家と萩原家の血を引く二人は、再び「夏の海」を訪れることになる。

 

 

 

 

 

目撃者-近藤紘一全軌跡1971~1986

目撃者-近藤紘一全軌跡1971~1986

 

 (夏の海収録)