Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

100℃を超える岩盤

書き出しの動力源 

 文章を書くにはエネルギーが要る。ただ雑文を書き連ねるだけならば、さほどの事はないかもしれない。しかしながら、多少なり文章校正や、論理の整合性や、話題の完結性といったことをよくよく考慮すれば、容易に文章などは書けない、と思う。

 最初の一行が書ければ、文章が書けるということは、要はそういうことなのだと思う。私はいつも、このブログのことを気にかけている。多少なり、アクセスしてくれる人がいるのだから、と思う。前回書いた「池上彰の見るベトナム戦争」には、このブログにしてはずいぶんとアクセスが増えた。ただ一つの所感だけを綴った記事だけに、あまりアクセスがあると申し訳ない気持ちが先に立つ。果たしてその記事は公開に値するものだったか、と。

 今回の記事も似たようなものなのだが、「文章を書くにはエネルギーが要る」、と言い訳めいた文頭が浮かぶと、ひとまずは勢いに任せてキーボードを叩き出した次第だ。キーボードを叩く、という言葉は、「筆を執る」という言葉に比べるとどうして浅薄なのだろう。

 

吉村昭 

 近藤紘一に関わることは、すべて構想に留まっている。これを書きたい、と思う。それを形にするのは、自分の中で納得のできる論理が構成できなければならないし、想像力を働かせるにも、何らかの根拠は必要なのだ。例えそれが憶測にすぎないとしても、拠るところの一つもないものは、ただの空想になってしまうからだ。

 昨年からよく、吉村昭の著作を読んでいる。吉村昭の名前はよく、沢木耕太郎の著作に登場した。その著作「戦艦武蔵」は、ノンフィクションの傑作とも呼ばれているからだ。吉村昭は、綿密な取材に基づいて小説を執筆している。資料を精査し、事実を知る者に取材を行い、何が起きたのか、真実に迫る。「三陸海岸津波」「関東大震災」「零式戦闘機」「羆嵐」「桜田門外の変」と、その範囲は幅広い。

 

方法論の違い 

 しかし、吉村昭本人は、自身の著作をノンフィクションとは決して呼ばない。それは、沢木さんや近藤さんの言うところの「方法論の違い」によるのだ。吉村昭が描きたかったものを表現するには、職業的なノンフィクションライターが決して記載することのない「虚構」が必要とされたからだ。この人がこう言ってくれたならば・・・こう言ったならば・・・「ノンフィクション」に事実でないことは記載することができない。どんなに真実に肉薄しても、「こういったに違いない」という憶測を「本人」の台詞という嘘として記載してしまったら、その文章はノンフィクション足り得ないのだ。

 だから、吉村昭は「小説」を発表し続けた。方法はどうあっても、その文章が意図する方向性は同じだったに違いない。

 

高熱隧道 

 最近読んだ氏の著作は、「高熱隧道」という。辞書によれば、隧道とは、トンネルの漢語的表現、であるという。戦前、電力源確保のために黒部第三ダムを建設した際の記録小説である。

 タイトルどおり、このダム工事に当たって最大の難関は「高熱隧道」であった。雪深い渓谷、断崖絶壁の道に作業道や水路を開設するに当たっては、岩盤を掘削するしかない。

 しかしながら、この温泉地にほど近い地盤は、想像を絶する常識外れの高熱を持っていた。人が人力で掘削に当たるその壁の温度は、優に100℃を超えたのだ。水をかければフライパンのごとく蒸発するような高熱の地盤を、男たちは掘り進めた・・・