Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

アンドレ・マルロー

「見ろ、マルローだ。」

 

 パリの近藤紘一は、コンコルド広場から歩いてくる人並みの中の人物に視線を引きつけられた。「大作家だ。ドゴール派の中でも別格だ」と、デモ見物に同行していた友人にその作品や経歴を説明し、「一個の人間の姿そのものから、これほど圧倒的な凝縮力と圧力をじかに伝播されたのは、初めての体験であった。周囲を圧する貫禄、などという安直な表現ではとても、その姿を伝えられない」と、後に述べた。

 フランス文学に熱心だった近藤紘一は自ら「別次元の存在」と捉えるマルローの姿を直に見て、このマルローを右腕として扱うドゴール大統領の勝利を確信した。パリの五月革命の1シーンである。

 

五月革命

 

 1968年、サンケイ新聞の社内留学制度でパリに留学中の近藤紘一が目撃した五月革命は、パリでの大規模なストライキと、それに起因する一連の騒動である。近藤紘一もこの騒動に巻き込まれ、参加するフランス語の講座は休講を余儀なくされた。この「革命」は、革命に対処する側であるドゴール大統領が解散総選挙に打って出て、大勝利を収め、鎮静化に向かった。

 ドゴールがどれほどの大人物であったか、ということは間接的に私も知っている。パリの空港の短縮コードは「CDG」、シャルル・ド・ゴール国際空港と呼ばれているからだ。

 

アンドレ・マルロー

 

 マルローは、前述のように大作家でもあったが、インドシナでは、カンボジアの首都プノンペンで美術品を盗難して逮捕されたほか、スペイン内戦に義勇兵として参加するなど、破天荒な道を歩んでいる。

 特にスペイン内戦では空軍パイロットとして負傷するなど、第一線で戦い、これらの経験をヘミングウェイ等とともに文学作品として残した。

 マルローが飛ぶ空の下では、その本格的なキャリアを始めようとしていた戦争写真家ロバート・キャパが、戦場を求めて闊歩していたかもしれない。

 

文化大臣 マルロー

 

 近藤紘一が「鋼のようなまなざしを真っすぐ凱旋門に据え、無言で一歩一歩、大デモの先頭を切って行った、あの人物の、不動の意志が革命の局面を転換させたーという気が、今もする。」と語るマルローの当時の役職は、文化大臣であった。

 1960年代、エジプトのナセル大統領は、洪水被害への対策と電力需給の高まりに対処するため、アスワン・ハイ・ダムの建設計画を進めていたが、この計画により、アブ・シンベル神殿ダム湖の底に沈もうとしていた。

 文化財保全の救済キャンペーンが行われる中、ユネスコ会議が開催され、文化大臣マルローは演説でこのように述べた。

 

「世界文明の第1ページを刻む芸術は、分割できない我々の遺産である」と。

 

 1979年、ガラパゴス諸島をはじめ12件の文化財が、「世界遺産」として登録された。現在、その数は1000件を超えている。

 

 

 

アンドレ・マルロー―小説的生涯 (1983年)

アンドレ・マルロー―小説的生涯 (1983年)