直感から至る道
本を買う。
2018年を迎えてしまった-というのは、地に足が着かないまま、目標も定めず1年を過ごしてしまったという後悔の念に堪えないからである。今年こそは、何かに付けて行動せねばならない、と本を数冊買い求めた。探している時には見つからないものが、ふとしたときに出てくるという経験は誰にでもあるだろうが、そのように手に入れることができた本は次の3冊である。
2 アオザイ女房 近藤ナウ
3 月曜日のカーネーション 吉川精一
吉川精一は、元NHKのアナウンサーで、著作の中で近藤について触れている。さらに加えて一冊、共同通信社で発行している「記者ハンドブック」を買った。もしかすれば、もう少し統一感のある文章を書けるようになるかもしれぬ、とは期待が過ぎるかもしれない。
ノートを作る。
さて、まだ表紙にタイトルこそ付けていないが、「近藤紘一ノート」とでもいうようなノートを作った。好き勝手ブログ記事を書いているうちには、ずいぶんいい加減なことも書いているかもしれない、と反省しきりである。ここ数日で、近藤紘一の著作をとにかく速読し、6冊ほど読破した。
近場のスターバックスで、隣の受験生が猛勉強?を終えて帰るまでの間、隣には小説を片手にメモを取り続ける私がいたことになる。
歴史の捉え方
かつて小林秀雄は、「大衆小説的歴史観」と「考古学的歴史観」というものを批判した。史実や史料を基としない空想も、瑣末な事実への執着も、本来注視すべき歴史を見ることができてない、という趣旨の批判であると私は考える。
大切な人を亡くした者が、その人を「あんな人だったなあ」と思い浮かべるがごとく、エモーショナルに、感情的に掴むものが真の歴史ではないか。批判された二つの歴史観は、中庸からかけ離れている。
また、直感から分析へ至る道はあるが、その逆は真ではない、ともいっている。
直感から至る道
私の直感かどうかはさておき、近藤紘一の著作を繰り返し読む私は、行間に滲む優しさ、のようなものが感じ取れるように思う。もちろんこれは、その作品によって異なり、必ずしもその作品を貫いているのは優しさばかりではない。しかしながら、没後30年を過ぎても読まれ続ける作品には、一種の力があるに違いない、と思う。
私は、ノートを取る。些細なことにも気を留める。それは些か考古学的なところがあるのかもしれないが、これは直感から至る道なのだと信ずるしかあるまい。
ただ、気合いを入れすぎると筆が進まない。多少の「誤差」は御指摘を賜りたい、と、ここで逃げ口上ー <完>
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