Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

70's

70's

 

  私には、どうも70年代に呼応するものがあるらしい。決して行くことのできない場所には一種の魅力があるのだろうか。ノンフィクション作家の沢木耕太郎は、「夢の都市」という言葉でそれらを表現した。ベルリンと、上海、サイゴン。それらの都市には、-たとえ名前が変わっていても-行くことはできるが、沢木耕太郎が行きたいと願ったのは、「一九三〇年代のベルリン、昭和十年代の上海、一九七五年の北ヴェトナムの「解放」前のサイゴン」だった。

 先日、思い立って東北地方に車を走らせた。出発前に山口百恵のCDを借り、1200キロの行程を、山口百恵の歌とともに駆け抜けた。

 

Wireless

 

 最近、引退を発表した安室奈美恵と比較されて名前の挙がる山口百恵の活動期間は、1973年から1980年の間だった。デビューのきっかけとなった「スター誕生」の放映された1972年の12月には、近藤紘一がサイゴンで、グエン・バン・チュー大統領がクリスマス前に全インドシナでの停戦を呼び掛けたことを報じている。

 その山口百恵のラスト・コンサートは日本武道館で行われたが、そのとき使用されたマイクは、「有線マイク」だった。近頃ではカラオケボックスのマイクでさえ、ワイヤレスマイクが主流となっているが、1980年代は、ステージ上で踊るトップアイドルでさえ有線マイクを使っていたのだ、と改めて思った。

 

テレックス

 

 近藤紘一の「サイゴンから来た妻と娘」の書き出しを思い返すと、「テレックス・センターを出て、ホテルの方に歩きだしたとき、妙な爆音を耳にした鈍く押さえつけたような音だった」・・・と、はじまる。

 ファックスの仲間だろうと思っていたが、テレックスとは「ダイヤルで相手を呼び出し、タイプライター式電信機で通信する装置」であるという。

 テレックスは、1975年のサイゴンにおいて、速報記事を本社に伝える唯一の手段だった。対空砲火音の中、ホテルに戻った近藤紘一は、「タイプライター」の前に腰を下ろす。

 

脚注

 

 私には、一つの思いつきがある。近藤紘一の著作に係る「脚注」を作ろうというのである。私が小林秀雄を読むとき、知識の浅薄さから?脚注の、あるいはインターネットの検索の力を要する。近藤紘一の著作についても、自らのための脚注を用意してみたいと考えているのだ。上記の「テレックス・センター」を推測で補って読み飛ばしたように、より深く一冊の本を読むためには、一文を読み解いていく必要があるのではないか。

 私は、近藤紘一の著作群を、再読、再再読・・・に耐えうる本だと思っている。近藤紘一が、頭をひねり、唸りながら推敲して書きあげたであろう文章に、再読するたびに迫れるような気がしている。緊迫した描写に、妻と娘に対する愛情に、鳥肌の立つような思いがする。

 

不落の要塞都市ダナン

 

 「サイゴンから来た妻と娘」の頁を数ページめくると、1975年3月29日、不落の要塞都市といわれたダナンが「凄絶な混乱の中で自壊」したと記載がある。私は、「ダナン」という都市をインターネットで検索して驚いた。これが、時代の流れか、と思った。それは、ダナンという土地が、あまりにも美しいリゾート地だったからだ。