Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

近藤紘一 × 日本競馬史 1

スポーツ・ノンフィクション

 私は近藤紘一や沢木耕太郎をはじめとして「ノンフィクション」作品を多く読むが、初めて自ら買い求め、読み進めていった作品群も、分野として純然たる「スポーツ・ノンフィクション」に属していることに気がついた。

 それは、「スポーツ」としての競馬である。私はギャンブルとしての競馬ではなく、ただ懸命に走るサラブレッドや、これに真剣に関わる人々の姿に、純粋なスポーツとしての形を見た。そこには、無数の物語があるのだ。

 

近藤家×日本競馬史

 私は個人的な興味から、近藤家の出来事と日本競馬史をリンクさせてみようと思いついた。あるいは、その時代をより明瞭にイメージできるのではないか、と思ったからだ。

 日本の近代競馬は、軍馬としての馬の競争能力向上を目指す「能力検定競走」から始まった。やがて日本中央競馬会JRA)の前身である日本競馬会が発足したのは、1936年のことである。この頃、近藤紘一の祖父である近藤次繁は、駿河台病院の院長を務めていた。

 

消えたダービー馬

 競走馬は、2歳になったときに競走生活に入り、3歳時に日本ダービーなどのクラシック競争に出走する。近藤紘一が誕生した1940年頃に生まれた競走馬たちは、まさにその現役生活を戦争とともに歩むことになった。

 1944年、近藤次繁の亡くなったこの年、第13回の日本ダービーが「観客のいない競馬場」で行われていた。

 この寂しい大レースを制したのは「カイソウ(快走の意か)」だった。この日本でもっとも栄光あるレースの優勝馬として、輝かしい実績を手に入れたはずのカイソウは、戦火の中でどこかに消えてしまった。

 「消えたダービー馬 カイソウ」

 ダービー馬の行方が知れなくなり、このようなキャッチフレーズを生み出す戦争を、私は恐ろしいと感じた。

 

先駆者

 ベトナムでは、1954年、ディエンビエンフーの戦いによって第一次インドシナ戦争終結に向かった。

 それから2年後の1956年、近藤紘一が湘南高校に入学した年に日本ダービーを制したのが、「ハクチカラ」だった。ハクリカラは後に天皇賞有馬記念を制し、名実ともに日本最強馬として君臨した。

 1958年、ハクチカラは戦後初の海外遠征馬としてアメリカに渡ることになる。直近10戦で8勝2着2回(連帯率100%)の成績を誇るハクチカラは、遠路はるばる辿りついたアメリカで苦戦を強いられた。

 9着、9着、4着、6着、6着、2着、3着、2着、5着、4着・・・

 

初勝利

 

 11戦目にしてようやくハクチカラが掴み取った白星は、日本産馬としても記念すべき海外初勝利となった。日本の馬が海外の重賞勝利をするまでには、ここからさらに36年ー、1995年の香港国際カップを制したフジヤマケンザンを待たねばならなかった。

 1963年、近藤紘一がサンケイ新聞に入社したこの年には、日本競馬史に名を残すシンザンがデビューした。近藤紘一も静岡支局において、戦後初の三冠馬となったシンザンの快挙を目にしたかもしれない。シンザンは後に、日本の競走馬として最長寿記録である36歳を記録して、1996年にこの世を去った。

 

それぞれの・・・

 1972年6月、ベトナムではキャセイ航空機が軍用機と衝突し、日本人を含む乗客が死傷するという痛ましい事故が起きていた。交戦地域のまっただ中で起きた事故対応への難しさを近藤紘一がリポートしたちょうどその頃、日本の競馬関係者は目前に迫る日本ダービーに向け、必死の調整をしていた。

 その競馬関係者に交じって、東京競馬場の厩舎(当時の厩舎は競馬場に隣接していた)に泊り込んでいる若者がいた。その若者は、4流血統ながらダービー制覇を目指す競走馬イシノヒカルの取材をしていたのだ。若者の名は沢木耕太郎、この当時の記録は「イシノヒカル、お前は走った!」として発表されている。

 

 

 

凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち 誰も書かなかった名勝負の舞台裏

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最強の名馬たち―「競馬名勝負」真実の証言

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激しく倒れよ (沢木耕太郎ノンフィクション)

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 (「イシノヒカル、お前は走った」収録)