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Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏について

「美しい昔」への反論4

 「美しい昔」第4章では、ベトナム戦争の経緯や、当時のベトナム報道について語られている。これらのベトナム戦争観は現在一般的なものであり、サイゴン陥落後に近藤が書いた文章とも相違ないものである。

 

 当時の世論のベトナム報道の論調の中にあって、サンケイ新聞の論調、つまり南ベトナム共和国の人民は、北ベトナムによる解放を望んでいないとする説は、反共保守的であり、アメリカ寄りであるという批判の対象であったということだ。

 

 もう一点取り上げられているのは、近藤の報道の対象である。市井の中にあって、よく庶民の「観察」をした近藤の記事には、市民の姿がよく描かれている。これは、市民生活の中にある現実をレポートした記事という意味で、政権や軍上層部を取材対象としていない(記事も書いた)という点が、他紙報道に比べ異端に映ったということである。

 

 その中で野地は、サイゴン陥落の翌日に近藤が女性の服装について記事にした箇所を取り上げた。近藤の記事は、共産主義者たちの目を恐れ、女性たちも質素な装いであったという趣旨のものだが、野地は「近藤はサイゴンの通りを歩いて、女性の服装観察をしていたのである。」と書いている。無論、近藤は女性の服装ばかり観察していたわけではあるまい。例えばいつもどおりの服を着ている老人に比べれば、華やかな女性たちの服装が昨日までとの対比が容易かったに過ぎないのではないか、と思うのだが。

 

 そのように庶民の姿をレポートする近藤の報道姿勢は、野地の書くところによれば「当時のマスコミや評論家はそうした彼の姿勢を「あくまでも軟派なやつ」」と苦々しく思った」のだという。

 

 当時のマスコミや評論家とは一体誰なのか、と私は考える。「当時のマスコミや評論家」という人々には私がない。そのような人々は存在していたのか、あるいはその人々が「思った」と断定できる根拠が、野地の取材過程では見つかったのだろうか。存在しない大衆の幻を借りて、野地が自らの認識を述べているに過ぎないのではないか・・・というのが、私の穿った見方である。

 

 近藤は「ノンフィクションとフィクションの間(目撃者)」で、「フィクションとノンフィクションを隔てるものは方法論の違いにすぎない」と、締めくくった。その文中で引用された沢木耕太郎の語るところによっても、ノンフィクションというジャンルの書物が最終的に当たるところは、「書き手の倫理観」であるとした。読者にとってのノンフィクションが真実性を持つかどうかは畢竟、その作者の記述が真実と信じるに足るかどうかという点にあるのではないか、と思う。

 

 

路上の視野〈1〉紙のライオン (文春文庫)

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近藤紘一さんに関心のある方、お持ちになった方へ                                                -   乱雑なブログとなっていますが、よろしければぜひコメントをお願いします。近藤さんついて語れる場の一つになればよいな、と思っています。