近藤紘一の義父、萩原徹。
義父 萩原徹
「サイゴンから来た妻と娘」を書いた近藤紘一が、ベトナム戦争を取材する新聞社の「戦地特派員(ウォーコレスポンデント)」として、南ベトナム共和国の首都サイゴンに赴任したのは1971年、31歳の時だった。近藤さんは、その前年に日本人の夫人を亡くしていた。
1964年、近藤さんは、早稲田大学で出会った浩子さんと結婚した。卒業して間もない23歳の時だった。サンケイ新聞に入社した近藤さんは、静岡支局に配属され、二人は静岡のアパートで暮らした。支局に奥さんが迎えに来るなど、文字どおりの新婚時代であった。
結婚と時を同じくして、近藤さんの義父となった浩子さんの父、萩原徹について、近藤さんは次のように書いている。
一人の男が最も自然に、そしてその語の響きを生かして“パパ”と呼べるただ一人の存在だった。(目撃者「パパのこと」より)
駐仏大使 萩原徹
私が確認した限りにおいては、萩原徹は一貫して「元駐仏大使」と紹介されているように思うが、その経歴を辿ってみると、次のようになる。
外務省のキャリア官僚
ところで,萩原徹とともに外務省に入省した同期に、数年前に財務大臣を務めた与謝野馨の父,与謝野秀(与謝野鉄幹・晶子の次男)がいる。
現在の国家Ⅰ種(キャリア官僚)試験に相当する文官高等試験外交科(外交官及領事館試験)の合格者として,1927(昭和2)年の第36回試験に、共に東大法学部からストレートで入省し、フランス書記生に採用された二人の名前がある。
(※同試験の第4回合格者には幣原喜重郎、第15回合格者には広田弘毅及び吉田茂、第50回試験の合格者には宮沢喜一らの名前が確認できる。)
1953年頃に、小林秀雄や白洲次郎がエジプトを訪れた際に、「与謝野大使」が、応接をしたことが両人いずれかの文章に書かれていたのを見かけた。これは、そうある名字でもないので与謝野秀であったと思われる。
萩原徹についても、白洲正子自伝を読んでいたところ、白洲次郎夫妻が鶴川村へ引っ越す直前期に、萩原徹夫妻が白洲家を訪れ、夜の1時過ぎまで会話したことが記されていた。いろんな書物を読み進めていけば、いずれ「萩原大使」について書かれた文章にまた出会うであろうと思っている。
萩原家の仮住まい
同期入省の縁からと思われるが、戦後まもなくの頃、空襲により焼け野原となってしまった東京で住家を失った萩原家は、麻布にあった与謝野家の借家を頼り,一時共同生活をしたことが与謝野馨により語られている。与謝野馨の2歳下である浩子さんも、同時期にこの借家に住んでいたのだろう。
やがて条約局長の任を離れた萩原徹は、次の赴任地スイスに渡ることになる。萩原徹には、日本の平和条約締結にまつわる著書がある。国会図書館にでも行かなければ確認できないようだが、いずれ、その経歴にも一歩踏み込んでみたい。
(2018年5月12日更新)
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<情報源>
与謝野馨公式HP 私の歩んできた道(7)
(http://www.yosano.gr.jp/history/history_20151203.html)
白洲正子の祖父は薩摩出身の海軍大臣だった。西郷隆盛同様、郷中教育を受けた世代である。