Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏について

近藤紘一と沢木耕太郎1

構想はあるのに文章がまとまらない。作家であれば死活問題だが、ブログの場合は困る人もあるまい。小林秀雄がとある講演のなかで、プロの作家にはリズムがあり、そのリズムに乗らねば文章が書けないと言うようなことを言っていた。アマチュアの私にとってはリズムより、単なるの時間的余裕の問題なのだろう。

近藤紘一と沢木耕太郎について書いていきたい内容はあるが、一点、二人の小さな共通点のひとつを挙げておこうと思う。その共通点とは、与那国島を訪れたことがある、ということだ。

沢木耕太郎は初期作品の中で、視えない共和国というノンフィクションを書いている。調査情報という雑誌の編集部で文章を書いていた沢木耕太郎の修行時代?のことである。修行時代とはいえ、できあがった作品の完成度は極めて高いと私には思えた。20代の若者にこのような文章が書けるのか、、と。
その文章で沢木耕太郎与那国島を訪れることとなる理由は一つの新聞記事である。その内容は台湾の漁船が密輸で捕まったとするものだか、その密輸金額は数百円程度のものだった。、、、おかしいと思わないか?
この額は日用品の買い物に過ぎないのではないか。その実態を見るため、沢木耕太郎与那国島へ向かった。

さて、近藤紘一が与那国島を訪れたのは、サイゴン崩壊から数年が経過した頃のことである。このときはナウさんも、ともに与那国島を訪れている。通訳の仕事があったからだ。
この頃ベトナムボートピープルが国際的な問題となっていた。共産政権のハノイ指導部の体制から自由を求め逃げ出す人々が海に出たのだ。ある一団は台湾に流れ着いたが、台湾に留まることができず、とある台湾人船長の計らいで日本へやって来た。「あの島の人達はとても親切だから」と。彼らの声を聴くことが、近藤夫妻の目的だった。

おそらく両者とも1970年代の話であると考えられるが、この頃の与那国島と、台湾の結び付きの強さをこの2つの文章に感じたのだ。少なくともこの頃台湾の人々は、与那国島で日用品を求め、島の人々の人柄を知っていたのだ。今現在はどうなのだろうか、、、改めて地図を見ると与那国島は東方の八重山諸島から離れ、一際、台湾に近いところに存在している。

二人の作家は同じ時代に同じ土地を見た、そして2つの国を見た。そして近藤紘一の文章ではやはり、元々の目的の差異はあれ、ベトナムの存在を大きく感じさせるものとなっていたのだ。

やえやまガイドブック

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