近藤家の人びと2 -祖父 近藤次繁ー
名医 近藤次繁
近藤次繁は,日本で初めて胃がんの手術を成功させた人物として知られている。近藤台五郎の父,近藤紘一の祖父の当たる。帝国大学でお雇い外国人ユリウス・スクリバ※に学んだ近藤次繁は,帝国大学卒業後も医術の道を歩み続け,次第に名医として名を知られる存在となっていく。
一方、師事したユリウス・スクリバも功績のある人物で,群馬県の草津温泉にはベルツ博士と並んで銅像が置かれている。ベルツには、ベルツの日記という記録があるが、スクリバは文字として記録を残さなかったらしい。
野口英世との関わり
さて、近藤次繁には医師として著名なエピソードがある。明治30年,帝国大学において,無償で野口英世の2回目の手術を行ったのだ。このとき野口英世は21歳,近藤次繁31歳であった。
医学界に功績を残しながら時を経て,帝国大学を定年退職した後は,駿河台病院を設立し,松本市営病院(現信州大学付属病院)設立※にも関わるほか東京市会議員に当選している。
日本人の心
明治〜昭和期のジャーナリストで,読売新聞社社長や日本新聞協会会長も務めた馬場恒吾の著作に「現代人物評論(中央公論社,1930)」がある。刊行当時の人物,例えば濱口雄幸,幣原喜重郎,西園寺公望等の明治の元勲に並び,「近藤次繁」の事が記されている。
大正6年のことである。馬場恒吾は,頬の出来物の治療を行っていたが,医者の態度に不安を抱き,近藤にいわゆるセカンド・オピニオンを求めた。診断の結果は癌であったが,近藤の手術により馬場は一命を取り留め,戦後まで活躍を続けることになる。
馬場はその文章の最後で以下のように述べている。
只私のみならず,博士に命を助けられた人は幾人あるかもしれぬ。殊に博士の慈愛心と,人格と,比類なき技量をおもふとき,博士が日本に居られる事は,どの位日本人の心を強くするか判らぬ。
大学病院を定年退職し,駿河台病院を開設する近藤に贈られた,最大級の賛辞であった。
※ 松本藩出身であったことから,松本病院の設立にも携わったものと考えられる。市内に胸像も建立されている。詳細は以下のHPに詳しい。肖像写真も掲載されている。
(http://www.shimintimes.co.jp/yomi/kyakko/kyakko36.html)
※ 上述のように活躍を続けた近藤次繁は,戦争最中の1944年に亡くなる。近藤紘一,4歳の時のことである。