Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏について

近藤紘一の足跡2 -そしてサイゴンへ-

サイゴンとの出会い

  近藤紘一は、1975年に南ベトナム共和国において、ベトナム戦争終結に至る「サイゴンの一番ながい日」を経験することになる。日本の若きジャーナリストは如何にしてその歴史に立ち会うに至ったのか。 

  近藤さんは、1963年に早稲田大学の仏文科を卒業し、サンケイ新聞に入社した。静岡支局勤務を経て、翌年にはサンケイ海外留学生兼移動特派員としてフランスに渡る。この2年間予定された渡仏には、学生時代から交際していた妻、浩子さんも同行した。その道中は若い二人の新婚旅行の意味合いもあった。

 

マジェスティックの眺め 

 このとき、近藤夫妻はグエン・カーン時代の南ベトナムも訪れている。駐仏大使萩原徹の娘であり、パリで暮らした経験を持つ浩子さんを伴って、フランス文化の残るこの地に立ち寄ったのだろう。

 後の著作「したたかな敗者たち」の中で、サイゴンマジェスティックホテルからの風景について、近藤さんは次のように書いている。

今も、はっきり覚えている。あのとき、私は、はるかに連なる緑と水と南国の大空を見渡しながら、自分がいつか必ず、この心広がるような風景の中に戻ってくるであろうことを、予感した。

 

 近藤さんは、サイゴンの風景との出会いを、運命的なものと自覚していた。

 そして、後に再びメコンデルタの風景を目にした近藤さんは、

あの夏の朝、私は幸福だった。

 ーと、おそらく一種の痛みとともに、このときの事を思い出すことになる。

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 葛藤のパリ

  フランス本国に到達した近藤さん夫妻は、パリで生活を送っていたが,浩子さんは次第に変調を来すようになった。近藤さんは著作の中で、折に触れてこの変調に気付かなかった事への後悔を述べている。

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 長く異国で暮らした浩子さんは、日本において、日本人のアイデンティティーを確立したいと願っていたに違いない。日本に留まりたかった浩子さんと、フランスでの生活を望んでいた近藤さん。しかし、若い二人は2年間離れて暮らす気にもならなかった。

 フランスでの慣れない生活に余裕のなかった近藤さんは、フランス語に堪能な「妻のぐずつき」に当初は構っていられなかったと振り返る。浩子さんの変調が、ついに異国での生活が困難となるに至って日本へ帰国することとなり、ある日突然浩子さんはその命を自ら絶った。

 

喪失 

 若干29歳で最愛の妻を失う気持ちというのはどれほどのものか…近藤さんの後悔は、生涯消えることはなかったと思われる。サイゴン陥落を見届け、次々と新しい土地で生活を送り、その死と向き合って、「僕は妻を死なせた男です」(太田 1998)と述べるに至る。 

 近藤さんは「サイゴンのいちばん長い日」の中で、サイゴン陥落後、身を寄せた大使館の一室で、浩子さんを亡くした後に、ヘミングウェイを貪り読んだことを振り返っている。ヘミングウェイに手を伸ばす前に、近藤さんの精神は生死を狭間を彷徨ったのかもしれない。

 何かに引き寄せられたのか、近藤さんは戦地であるベトナムサイゴンへ旅だった。後に近藤さんのサイゴン支局勤務は、戦地特派員として異例の長期に亘ることになる。サイゴン行きの選択は、意識的にせよ無意識的にせよ、自らを無理やり奮い立たせるためにあえて過酷な場所へ旅立ったかのように私には思える。

 

再生の日々 

 そして結果的にサイゴンでの日々は、崩壊を迎える南ベトナムとは対照的に、近藤さんにとっての再生の日々になったのではないか。サイゴン陥落の後、タンソンニュット空港から帰国した近藤さんは、「サイゴンから来た妻と娘」と一緒に、東京での生活を送ることになる。 

 

 近藤さんは次のように記している。

サイゴンでの特派員生活を振り返り)・・・私はいろいろなことを教えられた。そして私は、現在の妻と結婚し、サイゴンは、三十歳の私が”生まれた”町となった。ー

 

サイゴンのいちばん長い日 (文春文庫 (269‐3))

サイゴンのいちばん長い日 (文春文庫 (269‐3))

 

 (参考) 

太田治子1998 「司馬遼太郎―アジアへの手紙―」の中で

 

(2018年5月12日更新)

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