Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

君は、PANA通信を知っているか。

報道写真家 近藤幹雄

  近藤紘一や沢木耕太郎の担当編集者を務めた元文藝春秋社の新井信が、新装版「サイゴンから来た妻と娘」に寄せたあとがきに、次のような一節がある。

 私は近藤紘一のいとこである近藤幹雄氏に声を掛けられた。隠していて申し訳なかったが、実はガンの末期であり残り時間はもう余りない、このことをあなたから友人たちにも伝えてほしいという依頼だった。幹雄氏は報道写真家として活躍した人でもあり、彼が一番頼りにしていた相談相手である。

 近藤さんが頼りにする幹雄さんは、著作中にも何度か登場している。例えば近藤さんが急な取材で日本を離れるようなとき、日本に残す家族の事を幹雄さんに頼んだかもしれない、そんな風に私は想像していた。

 どのように「報道写真家として活躍」していたのだろうか。大宅文庫で調べると、「サンデー毎日(1965.1.10)」に岡村昭彦との対談記事を見つけることができた。記事によると、幹雄さんは1952年、朝鮮戦争の際に「初従軍」をした。米軍打倒の教育を受けながら、国連軍の従軍記者として戦場に立つ幹雄さんの心境は、当初複雑なものであったらしい。

majesticsaigon.hatenablog.jp

 

PANA通信 

 私が「PANA通信」という聞きなれない名前を知ったのは、以前記事に書いた平敷安常の「サイゴンハートブレーク・ホテル 日本人記者達のベトナム戦争」による。

majesticsaigon.hatenablog.jp

 

その名が 松下電器産業が名を変えたPanasonicと関係がないのは自明だったが、幹雄さんが社長を務めたこの通信社はいったいどのような存在だったのか。

 PANA(Pan-Asia Newspaper Alliance)、訳せばアジア広域新聞同盟とでもいうべきこの通信社は、中国系アメリカ人ジャーナリスト宋徳和(ノーマン・スーン)が、「アジア人の、アジア人による、アジア人のためのニュースを」と、設立したもので、1949年香港に本社、東京に支局が置かれた。

  

伝説の通信社

  今となっては想像しがたいことだが、戦後しばらくの間、日本のジャーナリストは海外取材をすることができなかった。そんな時代に大きな役割を果たし、日本の復興とともにその役割を縮小させていった通信社があった・・・私の中で、PANA通信はその詳細の掴めぬ伝説の通信社となっていた。しかも、その通信社の社長を務めたのは、他でもない、近藤さんの頼りにする男なのだ。

 そんな折、非常に嬉しいことに、このブログにコメントを頂いた。「PANA通信社と戦後日本 汎アジア・メディアを作ったジャーナリストたち」と言う本が2017年に刊行されていること知った私は、その本を早速買い求めた。

 

PANA通信社と戦後日本: 汎アジア・メディアを創ったジャーナリストたち
 

 

 

第二章 六〇年代のPANA通信社 -戦後写真報道と近藤幹雄の挑戦-

  第二章を割いて、幹雄さんを中心に書かれているが、章の冒頭に、近藤幹雄さんの生い立ちについて書かれており、私はまずその点について目を通した。父祖につながる生い立ちは、当然ながら従兄弟である近藤紘一の系譜とも重なるもので、一読した結果、この本が十分な調査を行い、正確に書かれた信頼のおけるものであることがわかった。読むのが楽しみな本が眼前にあるということは、幸福なことだと、私は今思っている。

 

迷信

現代の迷信 

 私達現代人は、迷信などには捉われてなどいないと思いがちだ。しかしながら、私たちの周りには、実に多くの迷信が満ちているのではないか。近藤紘一がレポートしたベトナム戦争では、ベトナム軍兵士が作戦決行日の吉凶を気にするために戦況に影響が出ることを米軍指揮官が嘆く描写があるが、「迷信を信じている」ということにおいては、現代日本人も彼らを笑う資格などない。

 

根拠のないもの 

 そもそも迷信とは、三省堂の国語辞書によれば、「客観的な根拠のないことを事実だと思い込むこと」だという。この言葉は、明治期によく用いられた国語辞書「言海」には見られないから、比較的最近の用語かもしれない。

 今日にも通ずる最も身近な迷信の一つに、「六曜」がある。先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口に分かれ、結婚式や葬式の際には、時に喧しく主張する人が少なくない。

 

六曜

 この六曜が単なる迷信に過ぎないことは以前から知っていたが、吉村昭のエッセイ「わたしの普段着」の中の「大安、仏滅」の中でその詳細を確認することができた。

 私が如何に吉村さんを信頼していると言っても、これは二次資料であり、ここからの引用を氏は好ましく思わないかもしれないが、六曜の原型は当然に中国にあり、本場中国では、「何の根拠もない迷信であるとして」、「数百年も前に暦の本から姿を消した」らしい。日本でも「江戸時代では迷信に類するものとしてほとんど重んじられていなかった」という。

 例えば徳川将軍の婚姻日を暦に照らして検証すれば、このことは明らかになるだろう、と思う。

 

暦と日本人

  明治5年に旧暦が改められ、太陽暦となった際にも、六曜は「妄誕無稽(うそいつわりでよりどころもない)」であるとして禁じられたという。このあたりの詳細は内田昌男氏の「暦と日本人(雄山閣出版)」に詳しいそうだ。

 明治10年後頃に、禁止の目をかいくぐって恐るおそる出版された六曜入りの暦が多いに売れ、現代にこの迷信は引き継がれているのである。吉村さんはこのエッセイの中で、「迷信であると知りながら、それをやんわりと受け止めるのも人間のおおらかさなのだと思う」と、非常に穏やかな見解を示している。 

暦と日本人

暦と日本人

 

 

雪の花 

 しかしながら、私が続けて読んだ吉村さんの「雪の花」では、この「迷信」が大いなる壁として立ちふさがる。この作品は、幕末の日本で猛威をふるっていた「天然痘」の根絶を願い、異国からジェンナーの確立した「牛痘」を利用したワクチン接種に生涯をかける福井藩の町医の話だが、私はこのストーリーに、現代に立ちふさがる「迷信」の影を見た。 

雪の花 (新潮文庫)

雪の花 (新潮文庫)

 

 

無理解との戦い 

 福井藩の医師笠原良策は、藩の役人や民衆の無理解によって、画期的な治療法をその手の内に入れながら、またも蔓延する天然痘の流行を前に手を拱く。現代に立ちはだかる迷信も、また峻烈な壁に違いなく、放射能に関する問題や、子宮頸がんワクチンの問題はその典型かもしれない。

 たとえばワクチン接種とその「副作用」と思いこまれている事象の間に関連性のないことが明らかになっても、副作用があるのではないかという「客観的な根拠のないことを事実だと思い込む」迷信が消え去らない限りは、民衆のうちでその誤解が解けることはあるまい、と思う。私達の心の構造が、少なくとも数百年来変わらぬものである、ということは、心に留めておいた方がいいと、私は思っている。

 

バカとつき合うな

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