Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

サイゴンで雨に打たれたい

水をあげましょう。

 ベランダのパクチーが枯れた。梅雨入りして油断したこともあり、水やりをサボったのがいけなかったのだが、命あるものにはやはり水が必要だ、と考えさせられた。懇切丁寧に育て上げたいかなるものにも、水は必要なのだ。柔らかく煮た鶏肉にパクチーを添えて食べる海南鶏飯カオマンガイ)を自宅で食べる計画も、当分断念せざるを得ない。

 

旅のベストシーズン・・・

 私がホーチミン、かつてのサイゴンを訪れたのは3月のことで、ベトナム南部は旅のベストシーズンとされている。実際、好天に恵まれ街歩きには最適だった。

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 もっとも、乾いたベトナムの風を浴びてバイクで一日走りまわり、ホテルに戻って麻のシャツを脱いだときには驚いた。日中、ベトナムの大気から絡め取った砂塵が繊維の中に入り込み、驚くほど黒くなっていたからだ。むろん汚れていたのはシャツだけではなく、私はマジェスティックホテルの客の中で、ダントツに薄汚れていたと思う。

 

サイゴンで雨に

 むろん、私はベトナムの空気が汚れている、などどは微塵も思っていない。ただ、そのとき大地が乾燥していたのだ、と思うまでだ。そして私は、思えばサイゴンで雨に打たれたかったな、と、部屋の中で今思っているのである。

 一九七五年三月二十三日、私はサイゴン・タンソンニュット空港へ舞い降りた。夕暮れの空港は、七か月前、常駐特派員としての勤めを終えてここを発った時と同じように、戦時国家のがさつな活気と、南国のおしつぶすようにものうい暑気に包まれていた。

 近藤紘一の「サイゴンのいちばん長い日」の書き出しにこのように書かれている。「ものうい暑気」の片鱗ぐらいは私も感じたのだが、雨季のサイゴンが発する暑熱や、南国の雨を感じてみたかった。一度だけスコール(ただの通り雨)にあったが、ドンコイ通りでフォーを食べているうちに、見る間もなく過ぎ去ってしまった。水たまりをよけながら、ホテルに戻った。

 

夢は枯れ野を・・・

 そんな暑熱を、近藤さんがどのように表現しているかー。そんな一節を探して「目撃者」を開いたのだが、こうやって開いたページに、今まで気付かなかったような言葉が並んでいる、というようなことがある。

 79年に書かれたエッセイ、「名犬「トト」の看病」にある一節が目に付いた。バンコクに赴任した近藤さんがダウンしている場面なのだがー。

 一人異国のベッドで天井を眺めていると、とりとめもなく来し方行く末などに思いをはせ、少々大げさにいえば、ときにもの狂おしいような気分に襲われる。どうせこれまでろくな生き方をしてこなかったのだから、このまま人知れずくたばっても相応の報いだ、などと考える。

 窓の外、南国の景観はあくまで明快だが、仰臥するものの感覚はやはり日本人である。病に倒れた放浪の俳人の鬼気迫る妄想世界が乗り移ってくる。夢は枯れ野をかけめぐるーーこの凄絶な一個の言語表現を残しただけで、間違いなく芭蕉は世界文学史に名をとどめる天才である、とつくづく思った。

 

 夢は枯れ野をかけめぐるーー。これを凄絶な一個の言語表現と、いわば「体得」するには、天才の感性を必要とするか。などと、凡庸な私は考える。

 

 

 

 

 

過ぎ去った季節の魅力

今年もサイゴンが 

  私はこのブログを書き始めて数年来、この季節に必ず思うことがある。年度初めの4月は忙しく、なかなか筆が進まない。やがて4月は終わりを迎え、それは同時に1975年4月30日のサイゴン陥落から、また一年が過ぎ去ったことになる。「今年もサイゴンが陥落してしまった・・・」私は心のうちで、そうつぶやく。

 1975年5月21日、近藤紘一は、「じわじわ生活不安」という見出しの記事を書いた。出典はもちろん同氏の遺稿集「目撃者」である。

 

市民生活

 北・革命政府軍がサイゴンを制圧してからまる三週間。サイゴンの正常化はかなり早く進んだ。街には散歩する人波があふれ、朝、晩のにぎわいは元通りに戻った。

 そうした書き出しに続いて、市民達の様子を近藤さんはレポートする。経済問題が、頭をもたげてくる。都市生活者は、金がなければ生活できない、銀行はいつから再開するのだろうか?市民達は頭を悩ませ、近藤さんも日本大使館からお金を借りた。日本政府が金を貸してくれるなど、こんなことは二度とあるまい、と近藤さんは軽口を叩く。人は時勢の変化に、意外と鷹揚なのかもしれない。私は予想外に違和感なく、書類に令和の文字を書き込んでいる。

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(グエンフエ通り 2018)

 

懐中に写真を

  そんな1975年の5月21日、新聞記事には書かれなかった出来事がある。それは、「サイゴンのいちばん長い日」に収められているが、支局で助手を務めていた「タン君」に訪れた一つの感動である。「ボクの両親が帰ってきた」というタン君が、両親に再会したということを近藤さんは聞いた。対面するのは、21年ぶりのことだったという。タン君は、「5歳の時いっしょにとった写真をハダ身話さず持っていた」から、再開した親の事をすぐにわかったそうだ。

 肌身離さず写真を持っている、というのは昨今では珍しいことで、写真の力というものは、もっと見直されてしかるべきものかもしれない。携帯電話やスマートフォンいった電子機器に写真が保存されていることで、私達は思い出が保存されたように安心しているが、それは気休めに過ぎず、記憶にとどめられず、形にも残らないという、大変あやふやな保存形態に仮初の安息を得ているのかもしれない。写真を現像しようか・・・私は、そう思った。

 

嬉しいニュース

  近藤さんにはこの日、もうひとつ嬉しいニュースがあった。ナウさんから電報が届いたのだ。

「東京の生活順調。早く帰ってこい」

 電報は、まだ受信しか認められていなかった。それでも近藤さんは、「私の精神衛生状態は好転した」と書いた。愛する人の「順調」ほど好ましいこともないだろう、と私も思った。

 

現れるもの

  サイゴンが陥落したのは、今から44年前の事で、私には何の関係もない。それでも近藤さんの文章にどこか魅かれるのはなぜだろうか。小林秀雄の文章で、なんとなくその理由がわかりそうな言葉を見つけた。

 当時の・・・政治や経済の問題が無意味になって了った今日になって、これが興味ある有益な著書である所以は、・・・に対する態度が、・・・一貫して誠に鮮やかに現れているという処にある。

 これは主観に過ぎないが、私には、サイゴンを歩く近藤さんの姿が、事変に処するその態度が、いかにも鮮やかに思い浮かぶのである。それは些か大げさに言えば、私が生前の祖父の姿を思い浮かべるのにも似ている。確かな力を、私は感じるのである。

 

 

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