Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

過ぎ去った季節の魅力

今年もサイゴンが 

  私はこのブログを書き始めて数年来、この季節に必ず思うことがある。年度初めの4月は忙しく、なかなか筆が進まない。やがて4月は終わりを迎え、それは同時に1975年4月30日のサイゴン陥落から、また一年が過ぎ去ったことになる。「今年もサイゴンが陥落してしまった・・・」私は心のうちで、そうつぶやく。

 1975年5月21日、近藤紘一は、「じわじわ生活不安」という見出しの記事を書いた。出典はもちろん同氏の遺稿集「目撃者」である。

 

市民生活

 北・革命政府軍がサイゴンを制圧してからまる三週間。サイゴンの正常化はかなり早く進んだ。街には散歩する人波があふれ、朝、晩のにぎわいは元通りに戻った。

 そうした書き出しに続いて、市民達の様子を近藤さんはレポートする。経済問題が、頭をもたげてくる。都市生活者は、金がなければ生活できない、銀行はいつから再開するのだろうか?市民達は頭を悩ませ、近藤さんも日本大使館からお金を借りた。日本政府が金を貸してくれるなど、こんなことは二度とあるまい、と近藤さんは軽口を叩く。人は時勢の変化に、意外と鷹揚なのかもしれない。私は予想外に違和感なく、書類に令和の文字を書き込んでいる。

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(グエンフエ通り 2018)

 

懐中に写真を

  そんな1975年の5月21日、新聞記事には書かれなかった出来事がある。それは、「サイゴンのいちばん長い日」に収められているが、支局で助手を務めていた「タン君」に訪れた一つの感動である。「ボクの両親が帰ってきた」というタン君が、両親に再会したということを近藤さんは聞いた。対面するのは、21年ぶりのことだったという。タン君は、「5歳の時いっしょにとった写真をハダ身話さず持っていた」から、再開した親の事をすぐにわかったそうだ。

 肌身離さず写真を持っている、というのは昨今では珍しいことで、写真の力というものは、もっと見直されてしかるべきものかもしれない。携帯電話やスマートフォンいった電子機器に写真が保存されていることで、私達は思い出が保存されたように安心しているが、それは気休めに過ぎず、記憶にとどめられず、形にも残らないという、大変あやふやな保存形態に仮初の安息を得ているのかもしれない。写真を現像しようか・・・私は、そう思った。

 

嬉しいニュース

  近藤さんにはこの日、もうひとつ嬉しいニュースがあった。ナウさんから電報が届いたのだ。

「東京の生活順調。早く帰ってこい」

 電報は、まだ受信しか認められていなかった。それでも近藤さんは、「私の精神衛生状態は好転した」と書いた。愛する人の「順調」ほど好ましいこともないだろう、と私も思った。

 

現れるもの

  サイゴンが陥落したのは、今から44年前の事で、私には何の関係もない。それでも近藤さんの文章にどこか魅かれるのはなぜだろうか。小林秀雄の文章で、なんとなくその理由がわかりそうな言葉を見つけた。

 当時の・・・政治や経済の問題が無意味になって了った今日になって、これが興味ある有益な著書である所以は、・・・に対する態度が、・・・一貫して誠に鮮やかに現れているという処にある。

 これは主観に過ぎないが、私には、サイゴンを歩く近藤さんの姿が、事変に処するその態度が、いかにも鮮やかに思い浮かぶのである。それは些か大げさに言えば、私が生前の祖父の姿を思い浮かべるのにも似ている。確かな力を、私は感じるのである。

 

 

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パリ協定の意味するもの-Paris Peace Accords-

パリ協定

 世界史の授業で私を悩ませたものの一つに、「カール=シャルル問題」があった。これは私の造語だが、16世紀に神聖ローマ皇帝だったカール5世は、国によってシャルル2世と呼ばれ、カルロス1世と呼ばれた。これらが全て同一の人物を指すのだ、ということに気づいた時には、期末テストは終わっていた。

 ところで、「パリ協定」と言う用語がある。これは、ベトナム戦争の構造を理解するために必須の用語だが、最近テレビでパリ協定というワードを耳にした方も多いと思う。2015年、地球温暖化等の対策に取り組む「気候変動枠組条約締約国会議」がパリで開かれ、全196ヶ国が参加する「パリ協定」が採択された。このパリ協定とは、国際的な気候変動を論じる際のキーワードなのだ。

 また、かつて1954年に西ドイツが主権を回復した際に結ばれた条約も「パリ協定」だった。少なくともwikipediaでは、1973年のパリ協定には「Paris Peace Accords」、2015年の協定には「Paris Agreement」の英訳が付けられている。これらもまた、訳語を巡る問題なのかもしれない。

 

泥沼の戦争

 ベトナムの戦史は長い。1945年8月15日に日本が敗戦した翌月2日、ホー・チ・ミンベトナム民主共和国の誕生を宣言した。インドシナに復帰したフランス軍との間に、第一次インドシナ戦争が勃発する。ディエンビエンフーの戦いを経てジュネーブ協定が締結される1954年まで抗仏戦争が続くことになる。

 ジュネーブ協定では、北緯十七度線に軍事境界線が設けられ、ベトナムは不承不承ながら南北に分断された。フランスが南部から撤退すると、アメリカがすぐに介入して南部にゴ・ジン・ジェムを首班に親米反共政権が発足する。1965年には、アメリカ軍がベトナムに上陸、戦闘に直接介入し始めたが、やがて長引く戦争に嫌気のさしたアメリカは、停戦協定を働きかける・・・ 

 

 

1973年1月27日、パリ協定

 「ベトナムにおける戦争終結と平和回復に関する協定」、通称「パリ協定」の内容を簡潔に説明すると、次のようになる。 

 米国、南北両ベトナム南ベトナム臨時革命政府の四者により調印された。現状停戦を命じ、ベトナム内部問題の政治解決、報復の禁止、戦後復興への援助などを定めた・・・(「統一ベトナムインドシナ」より)

 四者会談の構図は、次の①及び②のグループと、③及び④のグループに分けられる。

北ベトナム共産主義

南ベトナム臨時革命政府(共産主義:実態は北ベトナム

アメリ

南ベトナム反共主義:親米政権)

 しかし、①北ベトナムのレ・ドクト政治局員と③アメリカのキッシンジャー大統領特別補佐官との間の秘密会談で成立したこの停戦協定は、④南ベトナムにとって恐ろしく不利な内容であった。

 サンケイ新聞サイゴン支局長の任にあった近藤紘一は、この「パリ協定」の発効について、当時の新聞記事に次のように書いた。

ベトナム戦争は、二十八日午前八時(日本時間同九時)終結する。南北ベトナム三千四百万人の悲劇と後輩と憎悪の歴史は、いま閉じられる。(目撃者)

 このとき、「公式には」ベトナム戦争終結したが、現状はどうであったか。近藤さんは、後にこう書いている。

 米軍は、自分がかきたてた戦火も鎮めず、しかも大量の北ベトナム軍の南駐留を放置したままこの「協定」によって、南ベトナムから雲をかすみと逃げた。少なくとも多くの南ベトナム人がそう思い、この”裏切り”に激怒した。(サイゴンのいちばん長い日)

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ベトナム「欠陥」報道

 上記の和平協定が結ばれた後、北の共産軍が南ベトナムに侵攻し、首都サイゴンが陥落したのは、それから約2年3カ月後の1975年4月30日のことだった。

 近藤さんと古森義久氏の共著である「国際報道の現場から」で書かれているベトナム報道の問題は、日本の報道と現地の実態での明らかな乖離にあったという。現地に向かう記者は、当然日本で下調べをする。調べるとどのような結論が得られるかといえば、「南ベトナムの民衆は九〇パーセントぐらいは解放戦線、北ベトナムを支持している」ということだ。

 「それまで得ていた知識と、現地で膚で感じるものが違う」と二人は感じながら、「その格差を埋める戦い」を続けた。日本で、ベトナムに平和を!と叫んでいた団体は、米軍の撤退を受けて1974年に解散したが、「鉄の塊が南へ、南へと降りていった」のは、それから後の事だったのである。もちろんその進軍は、南北両ベトナムに共通して行われ続けていた「パリ協定」違反行為であった。

 

隔世の感

 結局パリ協定は、「戦争の終結を約束するものでもなく、単に米国がかろうじて面子を保ちながらベトナム戦争から足を洗うため体裁を整えたものに過ぎない」ものだった。そうしてベトナムから撤退していったアメリカが、ハノイ北朝鮮との会談をしたことに、何らかの感慨を持った方達がいるだろう、と私は思っている。

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<戦車の踏み込んだ大統領官邸>