Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

私の台湾日記①

「古本」と「古書」

  今春、所用で群馬県前橋市を訪れた。用事を済ませ、地元の人気店でソースカツ丼を食べると、付近に古書店があるのに気がついた。気まぐれで店内を覗くと、そこには興味深い本の数々が陳列されており、書棚を巡って、楽しい時間を過ごした。

 棚から棚を巡るうち、私の興味のある本が、「古本」ではなく「古書」と呼ばれる類に属しているのだ、と気付いた。本を数珠つなぎに辿って行くうち、自然と時代は遡り、「BOOK・OFF」のような、街のブックセンターで扱わないような古書に、非常な興味抱くようになっていたらしい。

 その本屋で購入したうちの一冊が、鈴木明氏の書いた「続・誰も書かなかった台湾ー天皇が見た”旧帝国”はいまー」であった。「「南京大虐殺」のまぼろし」で第4回大宅壮一ノンフィクション賞を受した鈴木明氏は、第10回大宅壮一ノンフィクション賞を近藤紘一と同時受賞した沢木耕太郎と縁が深い。沢木さんの著作の中に度々登場する「調査情報」編集部の「今井氏」が彼の本名である。

 

 

「KANO」

  近藤さんの書いた「サイゴンのいちばん長い日」と同じく、「サンケイドラマブックス」から刊行された本書は、書名のとおり続編である。本編はまだ目にしていないが、この本では、台湾がかつて日本領であった、というイメージを色濃く伝えている。 

 この中のエピソードに、2014年に台湾で映画化された「KANO」、嘉儀農林学校野球部の話が記されている。台湾東部の地方都市の学校で創立された野球部に、日本人、台湾人、台湾原住民が集まった。彼らは、1931年に行われた第17回甲子園に出場奮闘することになる。鈴木さんは、1977年の台湾で、現地で暮らしていた元甲子園球児に出会う。山中で石を投げ、獲物を捕えていた原住民の少年が、甲子園の大舞台で活躍する・・・それは絵に描いたようなストーリーだが、絵に描いたようなことが実現することは、めったにないものだろう。映画化の37年前に、この物語は一度掘り起こされていたのだ。

 

決めていないよ。

  前書きが長くなったが、そんな本を読んでいたためか、私はふと、台湾に行ってみようという気になった。そして、11月某日、私は「台湾虎航」ことLCCタイガーエアのエアバスA320機で、台湾桃園国際空港に降り立った。

 台北市内に向かおうとした私だが、すんなり空港を出ることができなかった。機内で記載した出国カードに、宿泊先のホテルを書く欄があったのだが、ホテルを決めていなかったので、バカ正直に「台北市内」と書いておいたからだ。

 入国管理官に泊まるホテル名を尋ねられ、「タイペイステーションホテル」などと、ありそうな名前のホテル名を適当に口にしたのがまずかったのかもしれない。係員は「タイペイステーションホテル、ノー!」と言った。仕方なく正直にまだ決めていない、と答えると、今すぐ予約せねばゲートは通さない、という次第になった。

 面倒なことになった、と思ったが、この旅では初めて、日本から「Wi-Fi」を持ち込んでいた。スマートフォンで「Booking.com」のアプリを起動し、「タイペイ タイペイ ホステル」という宿を予約し、ゲートを無事に抜けた。「タイペイ タイペイ ホステル」というのは、本当にホテルの名前か?と聞かれたが、そのとおりなので、大いに自信をもって返事をした。

 もう陽は落ちていたから、到着ロビーへ出る直前の両替所で、日本円を台湾元に替えることにした。4、5人待ちの列に並ぶと、腹の出た成り金風の男が横を通りかかり、英語で「こいつらは日本人だ、外にはたくさん両替所があるのにな、ハッハッハ」と言いながら歩いて行った。私は非常に不快な気持になり、精一杯にらみつけてやったが、残念ながらそれが精々だった。

 

台北での第一歩  

 郊外に位置する空港からは、地下鉄MRTが台北市内に接続している。空港からは、快速で40分ほどの道のりである。窓の外はすっかり真っ暗闇で、車窓からは、暗い水面が映るばかりで、それが川か池かの区別もつかない。

 到着した地下鉄駅から一歩外に出ると、粉糠雨が降っていた。トレンチコートを来た男が、なぜかまっすぐ私に近付いてくる。

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<続>

 

(追伸)

 私の台湾日記は、まだ未完の「サイゴンのちょっと短い日」の反省を胸に、短期集中連載で書きあげるため、事前に20行ほどの要約を用意して執筆に臨んだ。ここまで書きあげると、ようやくその1行目が終わったところである。困ったことだ・・・

サイゴンのちょっと短い日⑯

サイゴン・ストリート

   サイゴンでも、ストリートでもあるからサイゴン・ストリート。私は、サイゴンの通りを歩いていた。

これまでのあらすじ

  思い立って近藤紘一の愛した「サイゴン」、今のホーチミン市を訪れた私は、近藤さんにゆかりのあるマジェスティックホテルに向かった。やがて近づいてきたバイクタクシーの老人ミンさんに連れられ、原付バイクで郊外の都市、メコンデルタ河畔のミトーに向かう。ベトナム軍の兵士だったというミンさんと別れた私は、マジェスティックホテルに宿泊する。部屋に荷物を置いた私は街に出る・・・ 

majesticsaigon.hatenablog.jp

 

ハムギ通りを歩く

 「ハムギ通り」という名前は、近藤さんの著作や、開高健の著作にも登場する通りの名前である。この街の主要な通りの名前が当時のままである、ということは、通りの名前が北ベトナム共産主義者達にとって、何ら不都合な名称でなかったということを意味する。ハムギとは、「十九世紀末、抗仏戦争にゲキを飛ばし、捕えられ、アルジェリアに流されたグエン王朝の皇帝の名前」なのだ。

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<ハムギ通り/2018>

 前回の記事で私は、「かつて動物市が軒を連ねていたというハムギ通りを歩きだした。かつての喧騒はなく、銀行などが居を構え」と書いたのだが、近藤さんの「サイゴンから来た妻と娘」を読み直すと、この通りは当時から、「南ベトナムウォール・ストリート」と土地のビジネスマンから呼ばれていたという。私が訪れた時の静けさは、あるいは単に、この日が休日であったためなのかも知れなかった。消えてしまったのは、ヤミ市と、その一画にあった動物を売る店だけなのかもしれない。

 このハムギ通りから街の中心部に斜めに向かう少し細い通り、そこに並ぶ簡易な商店は、あるいは、「ここで手に入らないものは、東南アジアのどこを探しても手に入らぬ」と言われていたらしい河岸近くの露天市の流れを汲んでいるのかもしれなかった。

 

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 それでも、この通りを少し進むと、いかにも近代的な、今風のショッピングモールが居を構えていたりする。涼みがてらに足早に店内を一周するが、私の求めているものは何もなさそうだった。

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サイゴン市場

  ハムギ通りに戻り、通りを進んでいくと、すぐにラウンドアバウト式の交差点に辿りつく。工事現場の向こうに、時計台のような建物が目に付いた。私が持っていた1975年の地図には、そこは「サイゴン市場」と示されている。

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 近づいて看板を見ると、「CHO BEN THANH」とある。「ベンタン市場」だ。これも近藤さんの作品によく出てくる市場の名前だ。この看板を見て、「CHO」がベトナム語で「市場」を意味することに気付いた。

 つまり、近藤さんの作品によく登場する「チョロン」、中国人が仕切る大市場は、ロン市場、つまり「龍市場」ということになるのだ。

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 現在のベンタン市場は、主に観光客に土産物を売りつける場所となっているように私には思えた。時折、日本語で声がかかる。人通りも多く、私は市場内でカメラを構える気にはならなかった。

グエンフエ通り

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 ベンタン市場を出て、レタントン通りから、グエンフエ通りに出る。名の付いた通りから通りへ。かつてヨーロッパへ行った時も、通りに名前があって便利だな、と思ったことを思い出した。今のグエンフエ通り、かつてサンケイ新聞社がサイゴン支局を構えていた通りは、ずいぶんと再開発が進んでいるようだった。かつて車が列をなして走っていたであろう通りは歩行者天国となり、シティホール前のホー・チ・ミン像が、サイゴン川に向けて立っている。

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 交差するレロイ通りも、大きく姿を変えている途中らしかった。私は何度も、サイゴンは音を立てて姿を変えつつある・・・と、思った。クレーンの立つ更地を見ては、或いは数か月前まで、近藤さんの居た支局が健在だったのではないか、と空想した。

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 実は東京も、私が住む街も、大きく姿を変えてきているのだろう。それが発展、ということかもしれないし、単に時の流れということかもしれない。それでも私は、近藤さんの愛したサイゴンに、そこで生きる人々に、できる限り変わらないでいてもらいたいな、と思った。それがただの、旅行者の感傷だとは、知っているけれど。