Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

サイゴンのちょっと短い日⑯

サイゴン・ストリート

   サイゴンでも、ストリートでもあるからサイゴン・ストリート。私は、サイゴンの通りを歩いていた。

これまでのあらすじ

  思い立って近藤紘一の愛した「サイゴン」、今のホーチミン市を訪れた私は、近藤さんにゆかりのあるマジェスティックホテルに向かった。やがて近づいてきたバイクタクシーの老人ミンさんに連れられ、原付バイクで郊外の都市、メコンデルタ河畔のミトーに向かう。ベトナム軍の兵士だったというミンさんと別れた私は、マジェスティックホテルに宿泊する。部屋に荷物を置いた私は街に出る・・・ 

majesticsaigon.hatenablog.jp

 

ハムギ通りを歩く

 「ハムギ通り」という名前は、近藤さんの著作や、開高健の著作にも登場する通りの名前である。この街の主要な通りの名前が当時のままである、ということは、通りの名前が北ベトナム共産主義者達にとって、何ら不都合な名称でなかったということを意味する。ハムギとは、「十九世紀末、抗仏戦争にゲキを飛ばし、捕えられ、アルジェリアに流されたグエン王朝の皇帝の名前」なのだ。

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<ハムギ通り/2018>

 前回の記事で私は、「かつて動物市が軒を連ねていたというハムギ通りを歩きだした。かつての喧騒はなく、銀行などが居を構え」と書いたのだが、近藤さんの「サイゴンから来た妻と娘」を読み直すと、この通りは当時から、「南ベトナムウォール・ストリート」と土地のビジネスマンから呼ばれていたという。私が訪れた時の静けさは、あるいは単に、この日が休日であったためなのかも知れなかった。消えてしまったのは、ヤミ市と、その一画にあった動物を売る店だけなのかもしれない。

 このハムギ通りから街の中心部に斜めに向かう少し細い通り、そこに並ぶ簡易な商店は、あるいは、「ここで手に入らないものは、東南アジアのどこを探しても手に入らぬ」と言われていたらしい河岸近くの露天市の流れを汲んでいるのかもしれなかった。

 

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 それでも、この通りを少し進むと、いかにも近代的な、今風のショッピングモールが居を構えていたりする。涼みがてらに足早に店内を一周するが、私の求めているものは何もなさそうだった。

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サイゴン市場

  ハムギ通りに戻り、通りを進んでいくと、すぐにラウンドアバウト式の交差点に辿りつく。工事現場の向こうに、時計台のような建物が目に付いた。私が持っていた1975年の地図には、そこは「サイゴン市場」と示されている。

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 近づいて看板を見ると、「CHO BEN THANH」とある。「ベンタン市場」だ。これも近藤さんの作品によく出てくる市場の名前だ。この看板を見て、「CHO」がベトナム語で「市場」を意味することに気付いた。

 つまり、近藤さんの作品によく登場する「チョロン」、中国人が仕切る大市場は、ロン市場、つまり「龍市場」ということになるのだ。

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 現在のベンタン市場は、主に観光客に土産物を売りつける場所となっているように私には思えた。時折、日本語で声がかかる。人通りも多く、私は市場内でカメラを構える気にはならなかった。

グエンフエ通り

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 ベンタン市場を出て、レタントン通りから、グエンフエ通りに出る。名の付いた通りから通りへ。かつてヨーロッパへ行った時も、通りに名前があって便利だな、と思ったことを思い出した。今のグエンフエ通り、かつてサンケイ新聞社がサイゴン支局を構えていた通りは、ずいぶんと再開発が進んでいるようだった。かつて車が列をなして走っていたであろう通りは歩行者天国となり、シティホール前のホー・チ・ミン像が、サイゴン川に向けて立っている。

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 交差するレロイ通りも、大きく姿を変えている途中らしかった。私は何度も、サイゴンは音を立てて姿を変えつつある・・・と、思った。クレーンの立つ更地を見ては、或いは数か月前まで、近藤さんの居た支局が健在だったのではないか、と空想した。

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 実は東京も、私が住む街も、大きく姿を変えてきているのだろう。それが発展、ということかもしれないし、単に時の流れということかもしれない。それでも私は、近藤さんの愛したサイゴンに、そこで生きる人々に、できる限り変わらないでいてもらいたいな、と思った。それがただの、旅行者の感傷だとは、知っているけれど。

 

 

滑走路の暗殺

滑走路の暗殺

 

 物騒なタイトルだが、その書き出しは美しい。

 残照のマニラ湾ー。

 ロハス通りのレストランのテラスから眺めると、観光ポスターそのままの色彩と構図である。ダイダイ色に燃える海と空、灰色から暗灰色に移りゆくちぎれ雲、その下の部分は海の向こうに没した日輪の最後の照り返しを受けて黄金色に輝いている。

 風はない。並木のヤシは自らの葉の重みで思い思いにうなだれ、背後の空を黒く染め抜いて寝支度に入っている。

(近藤紘一 「妻と娘の国へ行った特派員」より)

 

 

 

 「滑走路の暗殺」は、近藤さんが、「フィリピンの反体制政治家」とされていたベニグノ・アキノ氏暗殺について書いたレポートである。同氏は、2016年まで同国の大統領務めていたベニグノ・アキノ3世の父に当たる。暗殺事件の委細についてはここで触れないが、私はこのレポートの書き出しを読んで、改めて近藤さんの文章の表現力に感服した。

 

描写する力

 

 私が同じ光景を見たとして、何度書いても「海の向こうに没した日輪の最後の照り返し」とか、「背後の空を黒く染め抜いて寝支度に」といった描写はできまい、と思う。そこまで表現に差が出るとしたら、一体どのような要因があるか。

 そこに私は、文章力だけではない「視る力の差」があるのではないか、と思うようになった。視る力を持つ者に、文章力が備わって初めて両輪を成し、名文が誕生するのではないだろうか。

 こうした視力は、一定のところまでは鍛えていけるものであるとは思う。あらゆるものを如何に漫然と見過ごしているか、卑近な例を挙げてみる。2年も住んでいる部屋から見慣れぬ鉄塔が見えた。もちろんその鉄塔はずっと存在していたが、私は気にも留めていなかった。あるいは、いつのまにか更地が出現していて、取り壊される前にどんな建造物が存在していたか一向思い出せぬー、と実例は枚挙に暇がない。

 

何を考えてよいか

 

 何か書いていると、途中で考えがまとまってくる、ということがある。今日は書いていても、なにやら先が見えない。試みに、「滑走路の暗殺」の終わりはどうまとまっていたか、頁をめくる。

 どんなことでも、後になれば、然るべき辻褄合わせができるものなのだから。

 とある。何かが上手くいかない今日この頃も、この文章についても、「然るべき辻褄合わせ」ができるとよいものだがー。

 そういえば、「辻褄」とはなんであるか。「辻」は十字路、「褄」は服の「へり」、「(上下左右、うまく合うべき着物の縫い目の意)一貫すべき、物事のはじめと終わり。」とのこと。

 物騒なタイトルのためか、文章の着地は失敗かもしれぬーー。と思いつつ、寝支度に入ることにする。