Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

1954年の戦い -日本、ローマ、インドシナ-

落語、日本を知ること。

 先日の事、私は初めて生の落語というものを見た。いや、落語は「聞いた」と言うのが正確だろうか。落語家は、立川志の輔門下の二つ目で、アメリカの名門イェール大学への留学、三井物産での社会人経験を経て入門したという異色の経歴を持つ立川志の春であった。

 同氏の著作である「あなたのプレゼンに「まくら」はあるか? 落語に学ぶ仕事のヒント」を基にした講演と、金明竹(きんめいちく)という演目の古典落語の組み合わせという会だった。

 講演も落語も予想を超えて面白かったが、留学中のエピソードが印象に残った。志の春さんはアメリカ人の友人に「お前は日本人なのにクロサワを知らないのか?ミフネを見ていないのか?」と聞かれたのだという。私もかつてベルリンで、「タンゲ(東京都庁設計の建築家)を知らないのか?」、「AKIRA(大友克洋作の漫画)を知らないのか?」と聞かれたことがある。彼は、ベルリンに研修旅行に来ていたスペインの建築学生で、日本のアニメが好きなのだと言った。

 そのとき私も、外国をちょっと旅した者がよく思うように、日本の事でさえ、意外と知らないんだな・・・と感じたことを思い出した。

 

七人の侍、1954年

 思い立ったが吉日、早速「世界のクロサワ」の「七人の侍」を借りてきた。もっと辛気臭く、荘厳な映画を想像していたが、予想外にコミカルに演じるミフネの意外さに驚くとともに、映像に引き込まれるという感じを持った。やはり、見てみなければわからない、ということはある。

 クレジットを見ると、七人の侍は1954年に公開されている。私はふと、同じモノクロ映画である「ローマの休日」のことが気にかかり早速調べてみると、同様に1954年に公開されていた。三船敏郎演じる菊千代がスクリーンの向こうで野盗相手に日本刀を振り回している頃、ローマのサンタンジェロ城近辺では、アン王女が追手にクラシックギターを振りおろしていたのだと思うと、ちょっと面白く思えた。

 

スクリーンのこちら側

 1954年、と意識して私がもう一つ思い出したことは、戦争写真家のロバート・キャパが40歳という若さで亡くなったのもこの年だった、ということである。毎日新聞の依頼で日本に滞在していたキャパは、1954年4月26日に七人の侍が封切られてから5日後、ライフの依頼を受託して仏領インドシナにある本物の戦場に向かい、前線取材中の5月25日に地雷を踏んでその生涯を終えることになる。

 

第1次インドシナ戦争終結

 1954年3月のディエン・ビエン・フーの戦いで、ヴォー・グエン・ザップ将軍率いるベトナム軍に敗れたフランスの敗北は明白となっていた。7月のジュネーヴ協定によってフランス軍はベトナムから撤退することとなり、第1次インドシナ戦争終結する。

 

近藤紘一少年

 湘南学園中学に通う当時14歳の近藤紘一少年も、ベトナム共和国南ベトナム)という国がこれから生まれ、どういった運命を辿るかということは露知らず、映画館に足を運び三船敏郎やオードリーヘップバーンの姿を見ただろうか。あるいは、アン王女と冒険をしたグレゴリー・ペック演じるアメリカ人記者ジョー・ブラッドレーの姿が紘一少年の進路に影響を与えたのではないか、というのは論も根拠もない妄想である。

1000文字で分かる「近藤紘一」 - Witness1975’s blog

 

 

 

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次郎の話

 

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次郎の話

 「次郎の話」というのも唐突だが、近藤紘一の弟は、次郎(つぎお)という。近藤紘一自身によって語られた弟とのエピソードは、戦時戦後の食糧難時に食べ物を奪い合った、という少々シビアな話だが、この記事は次郎(じろう)の話、として続く。先日、古本屋で見かけた白洲次郎の「プリンシプルのない日本」という本を購入したが、このとき私は「次郎違い」をしていた。

 白洲次郎は、吉田茂に請われて終戦連絡事務局参与として憲法成立や、通商産業省の設立に関わり、東北電力会長などを務めた。妻は、数多くの著作を残した随筆家のが白洲正子である。

 しかし私は、「国家の品格」や「若き数学者のアメリカ」などの著者である藤原正彦氏の父で、「アラスカ物語」などの著作がある「新田次郎」と混同していた。少し調べてみれば、藤原正彦の母である「藤原てい」も、「流れる星は生きている」という、戦後の満州からの帰還を記したノンフィクションを発表し、戦後のベストセラーを出している。このような勘違いによっても読書の幅は広がるのだな、と思った次第だ。

 

白洲次郎小林秀雄

 白洲次郎のプロフィールを見て最初に気付いたことは、生年が小林秀雄と同じだな、ということだった。そして実際に彼らには親交があった。小林秀雄の「Xへの手紙」のXとは、小林秀雄と同じく近代批評を確立した河上徹太郎だと言われているが、この河上は白州の家に間借りしていたこともあるようだ。小林秀雄が言っていた知り合いに英語の達者な男がいて・・・というのはおそらく白洲次郎の事だったのだろうと気付いた。

 さて、「プリンシプルのない日本」は、まとまった著作を残さなかった白洲次郎の文章を、(あえてこういう言い方をすれば)寄せ集めたものである。この本の中では白洲次郎がエジプトを訪れた際に、小林秀雄がカイロで待っていた、などと言うエピソードも紹介されている。

    このとき、エジプト大使を務めていたのは近藤紘一の義父、萩原徹(後の駐仏大使)の外務省同期、与謝野秀であった。どうも日本人が外国に行くと駐在大使が出てくる、という時代があったようだ。もっともそれは、彼らが要人であったからかもしれないのだが。

 

「プリンシプルのない日本」

 プリンシプルとは主義、などと訳される。プリンシパルとすれば校長だし、プリマドンナとすればバレエの主役である。プリンスとすれば王子であるから、princ・・・には主要な、といった意味があるらしい。私はどうもこうした横文字はこのように理解をしていかないと腑に落ちない。

 さて、この本を読んで私が思ったことは、近藤紘一の文章に通ずるものがあるな、ということだ。もちろん近藤さんの文章のほうが上手いのだが、共通点は、国を?憂う気持ちであったり、硬質でありながら少し砕けたような語り口と、「自分自身を偉いと思っていない」ところから滲み出る良識といったところだろうか。

 収録された文章は概ね1950~1970年頃のもので、ちょうど近藤紘一の活動期の前に当たる。戦後、所得倍増計画で経済成長を遂げる前の、良識ある日本人がどのように世相を捉えていたか、私には大変興味深いものである。(続)

 

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