Witness1975’s blog

サイゴン特派員 ジャーナリスト近藤紘一氏(1940-1986)について

探訪 名ノンフィクション

鋭角と鈍角 ノンフィクションの方法論

 私がこの本「探訪 名ノンフィクション」を手に取ったのは、沢木耕太郎、近藤紘一といった書き手の作品によって「ノンフィクション」というジャンルに興味を抱いているからである。そしてこの作品には、中央公論誌上に2013年掲載された沢木さんと著者、後藤正治の対談である「鋭角と鈍角 ノンフィクションの方法論」が掲載されていた。

  タイトルとなった鋭角と鈍角という言葉は、二人の作家の対象への向かい方、切り取り方といったものを比喩的に現したものだ。鋭角を好む沢木さんと、鈍角な切り口で作品を作る後藤氏では、同じ世界を扱ってもずいぶん違ったものになるらしい。(例えばボクシングでは沢木の「一瞬の夏」、後藤の「遠いリング」がある。)そこには、二人のノンフィクションライターの相互理解と互いへの尊敬があるらしかった。

 

探訪 名ノンフィクション

 この本で後藤氏が「名ノンフィクション」として選択した作品は、柳田邦男「空白の天気図」、ジョージ・オーウェル「カタロニア賛歌」、沢木耕太郎 「一瞬の夏」、田崎史郎梶山静六 死に顔に笑みをたたえて」ほか全18編の作品である。私が既に読んだものは「一瞬の夏」のみで、その他のいずれの作品にも興味を持った。著者の選考基準は、心を動かされたかどうか、インパクトを受けたか、と言ったところにあるらしい。

 

國男と邦男

 「柳田さん」のことが、前述の対談で出てくるのだが、民俗学者柳田國男のことだと思って読んでいるとどうにも辻褄が合わない。前述の作品リストの中で、「空白の天気図」を書いたという柳田邦男の名前を見て合点した。この作品は、終戦間もない昭和20年9月に日本を襲った「枕崎台風」に対し、原爆の後遺症の中、奮闘した広島気象台の人々を描いた「名ノンフィクション」である。

 

沢木版 探訪名ノンフィクション

 後藤氏の選による「名ノンフィクション」に対して、沢木耕太郎ならどの作品を選ぶか、という話題において沢木さんは、新聞記者から本田勝一、近藤紘一を選ぶ。作家からは吉村昭開高健と述べていた。 

 以前から近藤紘一を高く評価する沢木耕太郎が、近藤紘一の名前を挙げることに何ら不思議はないが、私にとっては、近藤さんの名前が出てくるだけでも嬉しい、ということがある。沢木さんは、今でも近藤さんを高く評価しているという、一つの事実がそこにある。

 

ノンフィクションとは

 この本によって、私が読みたいと思うノンフィクションの幅は広がったわけだが、改めて「ノンフィクション」というものが如何に微妙なところを足場とするジャンルであるか、と考えさせられる。

 沢木さんの理解によればそれは「嘘であると思っていることを書かないこと(注:表現が少し異なるかもしれない。)」ということなのだが、そういった意味では、前述の吉村昭の名著で、ノンフィクションとして語られることもある「戦艦武蔵」は、作者自身がノンフィクションであるとしていないことからも「史実を現したフィクション」である、ということになる。

 作者が表現したいものをフィクションで書くか、ノンフィクションで書くかということは、やはり単に方法論に過ぎない。しかしながら、我々読者が筆者を信ずることができる場合には、「事実(ノンフィクション)である」という重みもまた、大変なものではないか、と思う。

 

 

記録文学

 

  吉村昭の作品には、話題となった「三陸海岸津波」、に並んで「関東大震災」がある。千葉県東方の地震に端を発したこの大地震の記録を、記録文学をとおして触れておくことは、地震大国日本の国民として重要なことかもしれない、とも思う。

日本人の国際化について

 現代は国際化の時代とよく言われるが、私にはこのことについて大いに疑念がある。確かに交通手段やインターネットによって、物理的、電磁的に日本と世界の距離は縮まっている。例えば私も留学中の従兄弟と連絡を取ることができ、至極便利である。

 また、スポーツに目を向ければサッカーや野球のワールドカップが開催され、一部の日本人は海外で脚光を浴びている。そうしたことにも拘わらず、見た目に見えるほどに日本人の国際化というのは進んでいるのだろうか?

 

 それは日本人の精神の、国際化の問題と言ってもいいかもしれない。ベトナム戦争終結を見届け、ベトナム生まれの妻子を伴って活躍した近藤紘一(1940-1986)は、確かな国際感覚を持っていたように思う。その近藤紘一の遺した短文の一つに、「知識人の役割とジャーナリスト」がある。その中で近藤は、小林秀雄(1902-1983)を評して、「昨今の有象無象のオピニオンリーダーとはケタも次元も異なる、最高度の知識人であった」と述べた。近藤のわずか数行の文章に影響され、私は小林秀雄を読んでいる。その名前はこれまで触れた本の中でしばしば登場する名前であった。

 

 小林秀雄は近代批評を確立させた人物として知られる。その小林秀雄が評した人物の一人に、文士、正宗白鳥(1879-1962)がいる。小林や正宗が戦前に残した文章の中には、外国での滞在を描いた小文があるが、彼らの描いた問題意識や、外国の感じといったものは、そのまま現代に当てはまることが多いように思う。ましてや、より的確に本質を見抜いているのではないか?と思われる。むしろ70年も、80年も前に書かれた文章の方が、世界に対する距離の近さを持ってはいないか。

 

 もしかすると、日本が海外領土を持っていたということも影響するかもしれない。山月記で有名な中島敦(1909-1942)が書いた「環礁-ミクロネシヤ巡島紀抄-」は、パラオが日本領だった頃の記録である。南洋庁の官吏として赴任した中島は小島を巡るが、それらの島々には日本人の巡査や、校長が、どんな島にもいるのである。領土であるとは、そういうことだと思わされる。無論、原住民への接し方は前時代的なものがあるが、その感覚はその時代の常識であったのだろう。

 

 あるいは、紀行文というものが流行らなくなっただけなのだろうか。海外に滞在し、力のある文章を書くことができる作家がいなくなったのか。文学として読むことのできる、近年の優れた紀行文というものを私は沢木耕太郎の著作しか知らない。もちろん視野の狭い私が知らぬだけということはあろう。

 

 小林秀雄と数学者岡潔との対談で発せられた「世界の知力が低下している」という警鐘は日本にも当てはまり、それは今も続いているのだろうか。

 

 昨今、ヘイトスピーチなどという低俗なものがあるという。近藤紘一は「戦火と混迷のインドシナ」の中で、「四方を海に囲まれ、地続きの国境を持たない私たちは、良くも悪くも、いわば処女的な狭量さを身に付けた民族と思える。狭量さとは、自分たちのそれとは状況の異なる世界で生じていることがらを理解することがきわめて不得手、という意味である。」と述べている。それに続けて、例えば「民族感情」というものの厄介さを理解できていない、と述べる。

 

 近藤は続けて、「ほんの少し前まで一部の日本人が抱いていた”対朝鮮人感情”を思い起こせばいい。明らかに愚劣で、日本人としてなお恥続けなければならぬ感情だが、それは確かにかつて存在したのだ」と書いた。

 「かつて存在した」という愚劣な感情が、いま日本において盛り上がっているとすれば、これは日本人の国際感覚が退化しているということではないのか・・・あるいは世界の情勢を見れば、これは世界の知識の低下なのだろうか。

 

 国際感覚だけではない、開高健(1930-1989)は「政治家の汚職だろうと、個人の私行だろうとモンダイなるものが発生すると、たちまち集団ヒステリーを起こしてシロかクロかの議論だけしかできなくなるニッポン人の全体主義風の心性にはがまんがならないが、これはどうやら根がどこまではいっているのかまさぐりようがないくらいしぶとく、そして卑小である。その心性が明も生みだし、暗も生みだすのだが、今後もずっと肥大し続けることであろう」と述べたが、まさに予言的中と言えるであろう。

 

 現代人が、明治以来の先人を越える国際感覚を持ち得ているとは、私にはどうも思われない。これは私の穿った見方であるのだろうか・・・

 

 

 

 

開高 健 電子全集18 50代エッセイ大全

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